京都 街角寺社巡り⑤~光勝山 空也寺/錦綾山 曼陀羅院聖光寺 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

京都 街角寺社巡り⑤~光勝山 空也寺/錦綾山 曼陀羅院聖光寺

松原通から寺町通を北へ歩いて行くと、浄国寺、永養寺、乗願寺、空也寺、聖光寺、透玄寺、京都大神宮をはさんで浄教寺、春長寺と浄土宗寺院が続きます。その中で当日門が開いていたのは二寺。一つは、市聖、阿弥陀聖、市上人と称された空也ゆかりの寺院。 
 
 
 
 
 光勝山 空也寺
 
空也寺
 
下京区寺町通仏光寺下ル恵美須之町にある浄土宗の寺。光勝山と号す。本尊阿弥陀三尊。天禄三年(972)※1空也が錦小路西洞院に開創、天台宗に属した。のち敬蓮社見誉が中興。天正十九年(1591)現在地に移った。本堂には本尊のほか空也上人像を安置。釈迦堂に祀る釈迦如来像※2は、わら縄で縛って祈願すると「おこり」が治るという。
 
『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)
 
※1 京都観光Navi では、天慶三年(940)開創とする。
 
※2 同サイトでは、鉄製鎌倉時代作とある。
 
天禄三年といえば、同年九月十一日に空也上人が亡くなっていますから、『京都大事典』の由来から、空也上人が最後に開創したお寺になるのかな。
 
 
 
境内は街中でさほど広くありませんが、清々しさを感じます。蛸薬師の空也堂は私が行く時には常に門が閉まっているから、ちょっとだけ幸福感を味わう。
 
おこり(瘧)
 
《隔日または周期的に起こる意》間欠的に発熱し、悪寒や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。えやみ。わらわやみ。瘧(ぎゃく)。《季夏》
 
デジタル大辞泉解説より
 
二寺目は、小さな寺院なのに浄土宗の基礎を形成し、赤穂浪士と昭和の大スターゆかりの寺院。
 
 
 錦綾山 曼陀羅院聖光寺
 
 
聖光寺
 
下京区寺町通綾小路下ル中之町にある浄土宗の寺。四十八願寺※1の第四十二。錦綾山曼陀羅院と号す。浄土宗二祖聖光坊弁阿の営んだ草庵を建久八年(1197)仏師康慶が聖光を開山として寺と改めたと伝える。青海曼荼羅・清凉寺式釈迦如来立像を祀る。天野屋利兵衛のモデルといわれる安田善右衛門や大石良雄の母の墓がある。
 
※1 四十八願寺とは、中世から江戸初期にかけて、京都で急速に伸展した浄土宗鎮西・西山両派の寺院など念仏系の諸寺のうち、江戸期になって巡拝が盛んとなった四十八の寺。名称は、一切衆生を救うために阿弥陀如来がたてた四十八の誓願に由来。
 
 
『京都大事典』
 
京都市駒札と『京都大事典』と内容が多少違うので、踏まえてもう少し詳しく説明すると、浄土宗鎮西派に属する寺院。
 
平安時代後期、この地にあった仏師康慶の屋敷の後園に、九州から上洛した後の鎮西上人こと聖光坊弁長(弁阿は字)の草庵があり、ここから八年間法然の元に通い法灯を受け継いだ後、元久元年(1204)帰郷の際、康慶が別離を悲しみ、弁長の真影を草庵に奉安し聖光庵としたのが聖光寺の始まりとします。
 
駒札では、上洛したのが建久八年とし、創建を元久元年とします。
 
上洛したのは、筑前明星寺五重塔の本尊を康慶に依頼しに来たことのようですね。
 
なお、弁長は帰郷後、九州一円に浄土宗の教えを広め、弟子の良忠は鎌倉を中心に広めたことから、弁長の流れが知恩院の系統とをも併せて、今日の浄土宗の基礎を形成しています。
 
調べたところでは、市内には上京区仁和寺街道千本西入五番町にある長徳院が弁阿聖光を開山(1592)として創建されていました。
 
参考
 
京都観光Navi 駒札内容概略
『京都大事典』浄土宗  
 
 

 
本堂
 
本尊・阿弥陀如来。弁長自筆の真影は、江戸時代の火災の時に焼失を免れたため、焼け残りの御影とも呼ばれています。
 
寺宝としては、上記の他に源信作と伝わる、『山越阿弥陀三尊』を所蔵しています。
 

 
地蔵堂
 

 

開運地蔵菩薩

 

ほんとは通常非公開のため、境内のお地蔵様のお参りが目的でした。

 

公開していませんから、墓地に眠る有名人のお墓の画像はありません。

 

聖光寺には、赤穂浪士の大石内蔵助良雄の母と赤穂浪士を支援した天野屋利兵衛(安田善右衛門または錦屋善右衛門好時)のお墓があります。山門前に「天野屋利兵衛は男でござる」の碑が確認できると思います。また、鞍馬天狗で有名な大スター嵐寛寿郎のお墓があります。アラカンさんもTVでは忠臣蔵に出演されていますから、赤穂浪士ゆかりの寺院と呼んでも差し支えないですね。

 

ちなみに天野屋利兵衛のお墓は、京都検定的には、北区の地蔵院(椿寺)と覚えたはずなんですが・・・

 

深く考えてはいけないのだ。