京都 旅の足跡 伏見街道を行く 2 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

京都 旅の足跡 伏見街道を行く 2

 直違橋を渡って伏見街道(直違橋通)を北へ行くと深草商店街があります。商店街が形勢されたのは、近くに陸軍第十六師団があったからと言われ、京阪藤森駅も以前は師団前と称していました。

師団というのは、それだけで戦争ができる軍事組織単位ですから、多くの兵隊さんを擁していたので物資・兵隊を運ぶ道として師団街道が敷設され、それに伴い商店街も形勢されたわけです。墨染駅から北へ行くとその片鱗を垣間見ることができるので、元は南北にかなりの商店が軒を連ねていたと想像できます。

時は日清・日露戦争後の明治四十一年、京都では深草以外の北区や花園でも師団誘致が活発に行われたそうです。師団設置以前に陸軍歩兵三十八連隊がこの地にあったことが誘致に至ったのかな。もっとも、個人的には師団と藤森神社の関係に興味がありますね。祭神には神功皇后、日本武尊が祀られているため、多くの兵隊さんが参拝に訪れたのは間違いないでしょうから。

その商店街に入ってすぐに親鸞ゆかりの寺院があります。


 
浄土真宗本願寺派 西岸寺

 
西岸寺(さいがんじ)

 寺伝によれば、ここは平安時代の末、当時の関白であった藤原忠通(1097~1164)が建てたと伝えられる法性寺が建っていたところで、忠通の子、九条兼実(1149~1207)もことのほかこの地を愛で、花園御殿と呼ばれた。後白河法皇もしばしばこの地に御幸されており、後に法皇の御製にちなんで西岸寺と号した。現在は浄土真宗本願寺派に属している。

 親鸞聖人(1173~1263)は六角堂で救世菩薩より夢告を受けたことから、兼実の娘・玉日姫を妻として迎えたと伝えられる。しかし、承元元年(1207)この地より越後に流され、以来、玉日姫はこの小堂を守り、親鸞聖人の安否を気遣いながらここで亡くなったという。その後、玉日姫に仕えていた田村光隆(有阿弥1176~1269)は親鸞の弟子となり、九条家より小堂の寄進を受け、西岸寺を開き、玉日姫のお墓を守ったという。

 本尊は阿弥陀如来像、祖師前には親鸞聖人絵像とともに玉日姫の木像が安置されている。寺宝には親鸞聖人作の草鞋竹杖御尊像や九条兼実の木像などがある。玉日姫の木像は救世菩薩と同じ如意輪の御天冠をかむり十二単に緋の袴、右手には念珠、左手には開蓮の姿で、親鸞聖人夢告の救世菩薩の化身と考えられ、衆生に肉食妻帯の基本を示し女人往生を示したお方として古来より人々の信仰を集めた。

京都市駒札

なお、『京都大事典』(佐和研隆・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)では、有阿弥が兼実ゆかりの小御堂を寄進し、承元元年または文永五年(1268)に深草山西麓に創建。文禄年間(1592~96)に現在地に移転とあります。また、一説には兼実の女で親鸞の御台所であった玉日姫が、親鸞流罪の後この地に残り、屋敷を有阿弥に譲って創建したともあります。




同名の寺院が伏見にはあります。そちらは浄土宗寺院になり、油懸地蔵として知られています。

 

 

親鸞聖人像


本堂

さて、駒札を読んだら誰もが思うことは

親鸞の妻とされる恵信尼とは重婚? 

そこで玉日姫を調べると、茨城県結城市に玉日姫のお墓があることを知りました。

京都で留守を守る玉日姫

結城市で没した玉日姫

越後に帰郷した恵信尼(しばらくは京都でともに暮らし娘・覚信尼に世話を任せ越後に帰郷した説もあり)

親鸞多重婚?

結城市教育委員会の説明板では、越後の後に関東下向を聞いた玉日姫が侍女の白河の局を伴い関東に下り、親鸞が京都へ戻る際、自ら結城に留まり、草庵を結んで生涯を送ったとあります。

もっともらしく話を繋げると、承元の法難で越後に流される親鸞。京都は私が守りますと残った玉日姫。ところが、越後では、身の回りの世話をする三善氏の娘・恵信尼と結婚。恵信尼は関東下向はするも途中で越後へ帰郷。その後、京都から小御堂を有阿弥に譲って玉日姫が白河の局と関東へ下向。そしてその地で亡くなったとなります。

うまいこと修羅場回避ですな。

ただ、玉日姫については、九条兼実の日記『玉葉』に書かれていないことから、実在の人物か疑問視されていますから、何とも言えないです。

ん~西岸寺は軽く紹介して次の陸軍師団施設の説明をするために前置を書いたのに長くなってしまったよ。

次回にしましょう。次回に。

参考文献

『京都大正ロマン館』(鳥越一朗 ユニプラン 2006年)

参考サイト

結城市公式ホームページ