古典文学と京都12~宇治拾遺物語より(渉成園・河原院址他)
河原院融公の霊の住む事
今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしき事を尽くして、住み給ひける。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門、たびたび行幸ありけり。
まだ院住ませ給ひける折に、夜中ばかりに、西の対の塗籠をあけて、そよめきて、人の参るやうに思されければ、見させ給へば、ひの装束うるはしくしたる人の、太刀はき、笏取りて、二間ばかり退きて、かしこまりて居たり。「あれは誰ぞ」と問はせ給へば、「ここの主に候翁なり」と申す。「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候」と申す。「さはなんぞ」と仰せらるれば、「家なれば住み候に、おはしますがかたじけなく、所狭く候なり。いかが仕るべからん」と申せば「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りて居たらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と、高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。その折の人々、「なほ御門はかたことにおはします者なり。ただの人はその大臣にあひて、さやうにすくよかにはいひてんや」とぞいひける。
『日本古典文学全集28 宇治拾遺物語』
(校注・訳者 小林智昭 小学館 昭和四十八年)より
河原院は、六条坊門南・万里小路東にあった嵯峨天皇皇子・源融の邸宅。六条河原院、東六条第とも云います。
河原院は、寛平七年(895)源融没後、宇多上皇の仙洞御所となり、宇治拾遺物語巻第十二十五はその時の逸話になります。『江談抄』、『今昔物語』にも源融の幽霊が出没する逸話があり、これらは、陽成天皇退位に伴い、源融が自分も皇胤だから天皇になる資格があると自薦したことが背景にあるでしょう。宇多院は、光孝天皇の皇子・源定省が皇族復帰して皇太子になりましたから。もっとも、化けて出るなら藤原基経だろうと思いますね。
さて、文中の河原院はその規模が広大なため、河原院跡と伝える場所がいくつかあります。
渉成園
東本願寺の飛地境内の渉成園は、その雅な世界が河原院に思いを寄せるに一番適しています。
高瀬川沿いの木屋町通には石碑があります。
河原院址
河原院にあった籬の森跡になります。
本覚寺
上徳寺
長講堂
富小路五条下るあたりは塩竈町といい、富小路通沿いは、本覚寺をはじめ、上徳寺や長講堂など寺院街を形成しています。六条坊門小路は現在の五条通のことですから、その南の寺院街がすっぽり河原院に入ることになります。
これだけでも広大なのに、源融は他にも別荘を保有していました。
宇治の平等院は元は源融の別荘。
栖霞観は嵯峨野の別邸。現在の清凉寺(嵯峨釈迦堂)です。
さすが光源氏のモデルの一人と言われるだけありますな。
ちなみに、源氏物語ミュージアムの「あなたは登場人物の誰?」のような診断がありまして、私は薫ちゃんでしたな。
好い人なんだけど、優柔不断なんだな。