遠江国説話集336~浜松坂上田村麻呂伝説その三(浜松市浜北区於呂)。 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

遠江国説話集336~浜松坂上田村麻呂伝説その三(浜松市浜北区於呂)。

大蛇と美女


千余年の昔、坂上田村麻呂将軍は、東征して三方原の東にくると、岩田の海に赤大蛇がいて、軍の渡舟をなやませました。

将軍が神仏に祈って大蛇退治を決心したとき、ある夜、世にも稀な美女が訪れてきた。

「お側において給われ」という。

将軍が妃として寵愛する中に、彼女は妊娠した。彼女が出産する時、産屋を覗いて見ると、それは八尋の赤い大蛇であった。

やがて大蛇の産んだ一子俊光は、将軍にしたがって都に帰ったが、数年して再びこの地にきた。

「母上、会いとう存じます」

俊光は七日七夜祈願をした。すると満願の夜、一人の美女が現れた。

「ようこそ訪ねてくれたの。私はそなたの母じゃ、会いたかったの」

「母上、お懐しゅうございます」

「俊光、母はそなたのことを、いつまでも守ってやりますぞ」

というとそのまま、母は姿を消してしまった。

俊光は母恋しさと、衆生済度のためにと、比久尼如来の像を刻んで、子安地蔵大菩薩として、浜北区於呂に、堂舎を建立して祀った。

これが今の岩水寺(参考画像1)であるという。

また一説には、昔、行基菩薩が諸国を行脚してこの地にき、ここの水源に、三間四方の仏堂を建て、木像を彫って安置したのが開基であるともいう。

付記

この寺の北300㍍に、大きな鍾乳洞(参考画像2)がある。洞窟の深さは計り知れない。だれでも、十数㍍の奥までは容易に行けるが、なお延々と続いている。それでこの穴は、信州の諏訪湖まで通じ、大蛇が往復しているという伝説さえもある。

しかしこのあたり一体は石灰岩の山なので、何十万年かすれば、こうした鍾乳洞のできるのは当然であるが、往昔はその不思議さに、この寺を岩水寺と号し、いよいよ尊崇したものと思う。

この寺は中世非常に繁栄して、堂塔坊舎三百六十、その門前は五㌔㍍、大門跡は浜松市東区豊町にあるという。

だが鎌倉時代に、時の執権北条時頼が一笠一丈に身を托してきて、この寺の僧侶のおごりの甚しさに、領地を没収したという伝説もある。

寺の裏山の中段に、中興の祖、覚仁僧都を祀る地安坊があり、更に百四十四㍍の山頂には、俊光将軍を祀る田村神社(参考画像3)がある。


『遠州伝説集』(御手洗 清 遠州出版社 昭和四十三年)所収




参考画像1





岩水寺





田村麻呂伝説には不可欠な(境内の)赤池。



参考画像2





付記にある鍾乳洞。

参考画像3


山頂にある田村神社。