遠江国説話集334~浜松坂上田村麻呂伝説その一(浜松市東区有玉/浜松市中区上島町)。 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

遠江国説話集334~浜松坂上田村麻呂伝説その一(浜松市東区有玉/浜松市中区上島町)。

有玉と赤蛇


有玉は、昔、袖ヶ浦(注1)といわれた泥海で、赤蛇の主がいて、渡船が日に一度であれば変事もなかったが、二度となると風波が起こり、船はたちまち転覆するという恐ろしい難場であった。

延暦十四年(795)二月朔日、坂上田村麻呂は東夷征伐のため都を下られ、この海の西岸半田の船岡山に陣を張り滞留された。というのは、城飼郡潮海寺(注2)の薬師菩薩の霊現によったのである。

東夷を平らげた将軍は山名郡に帰還したが、その時、逆風が波を巻いて渡海に難航したが、薬師の霊現で風が凪ぎ潮が平らになって、無事、船岡山に帰陣されたのである。

ある日、美女が陣営に将軍を訪れ、卑賤の者だが仕えたいと懇願した。将軍は怪しいと思ったが、召し抱えると陰日向なく立ち働くので寵愛し尋常な関係を超えた。

延暦十五年(796)、美女は身重になった。そして、女の願うまま縦横四尋の産屋を造り、二十日間は産屋を見ぬようにとの哀願をも容れた。

しかし、この頼みはおかしいと思ったので、ある日、密かに屋内をのぞくと女はいず、大蛇が八重にトグロを巻いて嬰児可愛いと抱き締めていた。

将軍は戸を蹴破って入った。大蛇はたちまち美女になり、お恥ずかしい醜い体をお目にかけた。寸時も猶予はならない。故里に身を退くが、この嬰児は愛育願いたい。影ながら守護は怠りはせぬ。実は私はこの海の主、三千歳を経た赤蛇である。と一個の玉を嬰児に添え海中に姿を隠した。将軍は嬰児を抱いて都に上り復命に及んだ。

延暦二十二年(803)、東夷は再び叛いた。嬰児は八歳となり俊光といった。詔があって将軍は俊光とともに東征の軍を率い、再びこの地に着き渡海の段となると逆風が起こり潮は甚だ急になった。

俊光はかの玉を捧げて海に投じた。すると、潮が涸れて陸地となり大蛇が倒れていた。玉の沈んだところを有玉という。そして、この玉は夜光を放ったので、ここに社を建て有玉の社といった。今もある有玉八幡宮(参考画像1)である。玉は潮干玉といい、村人は俊光を貴び社を建てて俊光将軍社(参考画像2)といった。

そして薬師菩薩の霊現により、伊勢大御神、浅間神社、八幡大菩薩を斎き祀った。またこの山を大菩薩山(参考画像3)といい、赤蛇が住んだ所を赤池(参考画像4)という。曳馬村の上島の赤池である。この地に寺を建立して赤池山光福寺(参考画像5)と称し、城飼郡潮海寺の尊像を祀った。赤蛇の死骸は鹿島の天龍淵(参考画像6)に投げ込み、崖の上に社を建てた。これが椎lが脇神社(参考画像7)である。



「浜名郡誌」『新版 遠江の伝説』(小山枯柴 羽衣出版 平成七年)所収




注1 現馬込川川岸

注2 現菊川市潮海寺



参考画像1



有玉神社。本社と画像奥が将軍社。



参考画像2




有玉神社移転前の旧将軍社。


参考画像3






大菩薩の坂を上がったところに旧将軍社があります。



参考画像4






現白華寺(旧光福寺)境内の赤池(どちらか)。



参考画像5




現白華寺薬師堂。


参考画像6




天龍淵。



参考画像7




浜松市天竜区椎が脇神社。




伝説各所に疑問がありますが、江戸時代でもそのようで、次回は江戸時代の文献をアップします。