祖父の、三回忌を行ってきました。

無事に納骨をしたのが一周忌になってから

それまではお墓をどうするかで、随分と色々あったようです。

 

結局先祖代々の墓はしまって、本人は樹木葬を選択。

若い住職の方が色々取り組んでいる、いいお寺さんで、落ち着いた印象で。

それで、いいと、祖母も母も思った。

けど、他の宗教を信じている人は「それでは祖父は地獄に落ちる」なんていう。

 

死生観、というのは、いつでも向き合えるものではないし

経験数や体験の違いが、如実に現れる、本当に難しい問題だなと実感します。

 

私は、祖父の件以降、自分の中でかなりはっきり死生観が確立していて、

どの供養方法を選んでも、最後はそれを行う側が納得しているかどうか

納得できるかどうか、なのだと思います。

 

祖父の魂はどこにあるか、今も横にいるか、それとも旅をしているか

はたまた、天国か地獄か。

 

私には、どの考えも馴染みませんでした。

例えば霊能者に「祖父はこう言っている」と言われても

祖父の体で祖父の声で、そう言えないならもう、それは祖父の言葉じゃない

そうして、祖父は最後に何を考えていたのか

私のことをどう思っていたのか、知りたくて知りたくてたまらなくなる。

 

けれど、これに納得のいく答えが出ることはない。

誰になんと言われても、祖父が教えてはくれないから。

 

でも、だからこそ、会いたい気持ちと、思い出がすごく尊い。

ああ、会いたいなぁ。

 

そういえば

今年の夏、仕事がつらくて家で1人泣いていて、

部屋に飾っていたドライフラワーが落ちたとき

一瞬、祖父がいるのかもと期待しました。

同時に、全く別の幽霊に呪われているのかな?とも。

けれど、それを決めるのは、生きている私。

目の前に起きた現象は、ただ、ドライフラワーが重みに耐えかねて落ちた

事実だけ。

 

こういうことを考えていると、「救い」を求めていると勘違いされます。

いろんな方法で「きっとおじいさんはこうだよ」とか「阿弥陀様はこうだよ」とか「神様は」と言われます。

でも、それを決めているのも、生きている私たち。

祖父の答えは知ることはできない。

 

でも、答えは永遠に出なくていい。

出る必要がない。だからこそ尊い。

時々、苦しいときも、何かの節目にも、ふと祖父を思い出す。

「会いたいなぁ」って、思う。

会いにきてくれていると思いたいならそう思うことにする。

 

ずっと死にたかったはずなのに、祖父を思えなくなると思うと

死ぬわけにはいかないと思ってしまう。

 

結局、この三年、私の中での弔い方は「追想」です。

 

そう言えば、

祖父母の家に滞在しているとき

祖父に「おやすみ」の挨拶に行くと、決まってハイタッチをしていて

最期の日、意識もなくて浮腫んだ祖父の手を1人で持ち上げて

「おやすみ、また明日」とハイタッチをしてみた。

耳が悪かったから、静かな病院で大きな声は出せなくて、きっと聞こえていないけど

ハイタッチは分かってくれたと自惚れてる。

そしたら、そのあと、急にはっきりと目を開けてこちらをみていた、

あの祖父の目は、最後に何をみたんだろう。

 

私は特別な、いい孫だっただろうか

 

ああ、会いたいなあ。

会いたいなぁ。