長年の夢が叶い、僕はニューヨークでGoGoダンサーになった。



遡れば2015年。


当時登録していたエスコートのエージェントのCEOが売⚫︎の仲介容疑で逮捕されたことでその年の8月にサイトは突如閉鎖された。


その後しばらくして、類似のサービスはぼちぼち出てきたものの、プライベートで彼氏と同棲していたし、ビザを担保してくれる日系企業の社員もやっていたためその仕事もかなり忙しく、ゲイ産業からは遠ざかっていた。


当時同棲していた彼とは、彼の家族とも会っていたし、一時期は結婚も考えたこともあるくらいだったから、ゲイ産業に戻ることはないかもしれないとさえ思っていた。


ここでふたたび海外ならではの事情になるのだが、就労ビザというのは会社に紐づいている。


アメリカにある日系企業だとしたならば、その会社がこの日本人を雇う必然性があるから就労許可を出してくださいとアメリカ当局に申請することでビザが得られるのだ。つまり、僕個人としてビザを持っているというよりは、会社がビザを持っていてその権利を個人として使わせてもらっていると言った感覚に近い。もっと簡単に言うと、会社を辞めれば就労ビザも失効するのだ。しかも、会社を辞めたら10日以内に国外に出ないといけない。会社が身元保証人みたいなものなのだ。


なので、極端な言い方をすれば、アメリカに居続けたいのなら会社を辞めるわけにはいかない。


転職してビザを持ち続けるという手段もあって、これをトランスファーと言うのだけれど、どのみち他の会社に転職する必要があるし、送り出す側の会社の協力がないとトランスファーはできない。


なので、就労ビザをもともと出してくれた会社が人員削減などの目的で社員を減らす必要がある場合などに、そこの経営者が好意として転職のためのトランスファーの手続きをしてくれるというのがありえるパターンなのだ。簡単に言うと、社員みずからの意思で辞めたいけどアメリカにいたいから他の会社に転職したいと言い出したときに、


はいそうですか、と快くトランスファーの手続きに応じてくれる経営者はあまり考えにくい。しかも、就労ビザには職種のカテゴリーが厳密にあり、最初に出された職種と同じカテゴリーでないとトランスファーできない。


つまり何が言いたいかと言うと、たとえば就労ビザを日系企業から出してもらっていた当時の僕が、ゲイバーで働きたいのでトランスファーしてくださいとお願いしたとしても、第一に社長から、


ダメーっ!


と言われたら終わりだし、そもそも職種のカテゴリーが違うから現実的にはトランスファーはできない。


そもそも就労ビザとは、アメリカ人の雇用を奪わないようにするための制度であって、要するに、特定の国の人じゃないとできない職種に限って許可されるのが一般的なのだ。


だから、日系企業のアメリカ現地法人の場合は、日本語が堪能であることなどが必須だと見做されて、日本人にビザが降りる。一方のゲイバーならば、日本人である必然性がそもそもない。アメリカ人でもできる仕事ならば、わざわざ外国人に就労ビザは出ない。これは、アメリカがアメリカ人の雇用を守るためのシステムなのだ。


就労ビザと言ったけれど、一般的に、就労が可能なビザにはいくつか種類があって、僕が当時持っていたのは、専門職ビザというものだ。


他には、投資家ビザとか、経営者に出されるビザなどもあって、そうしたビザの場合は実質的に永遠と延長できるものもあるのだが、専門職ビザの場合は、最長で6年間しか保持できない。


つまり、どんなに頑張っても、6年働いたら日本にお帰りくださいという決まりなのだ。これは会社都合ではなく、アメリカの当局がそう決めている。


では、引き続き会社が雇いたいと考えたらどうするかというと、永住権のスポンサーになることになる。永住権は申請してすぐに降りるものではないし、そもそも降りない場合も少なくない。却下される事情はさまざまある。ただ、申請さえしていれば、労働許可証というものが発行されて、申請中は結果が出るまでは就労できることになっている。


この労働許可証をもらってから永住権をもらうまでに、早くても数年かかる。


労働許可証は就労ビザと同じく、会社に紐づいているから、この間、原則的に辞めることができない。


そこから、永住権が取得できると、ここではじめて個人に紐づくようになるのだ。


つまり、転職をしようが、起業をしようが、フリーターになろうが、ニートになろうが、滞在を合法的に継続できるようになる。


ところがひとつ問題があって、それはあくまで法的には可能なのだけれども、会社としては雇い続けるためにスポンサーになるわけだから、やめてくれても困るというのが本音であることは無理もない。ただ、現実問題として、永住権を得たら転職したり起業したりする人は少なくない。


僕もこの点については会社に不義理はしたくなかったから、永住権のサポートをしてくれるという話になったときに、当時の社長とよくよく話し合った。僕が伝えたのは、ずっとアメリカにいるかはわからないということと、ずっとこの会社にいるかはわからないという点だった。それがダメならスポンサーしてくれなくて大丈夫ですと伝えた。ていうかむしろ当時の僕は、アメリカにちょっと飽きてたこともあって、バンコク移住を本気で目論んでいたこともある。なので、それを伝えて会社がNGだったら、バンコクに行こうくらいに考えていた。


ところが当時の社長は、自分としてもちゃんと永住権を出してあげることがケジメだから、と言ってくれた。なので、僕としてもなんら騙すことも誤魔化すことも煙に巻くこともせずに、双方納得のうえで、永住権の取得の道を選んだのだ。


そしてそこから数年が経ち実際に取得が完了したのがコロナ前のこと。もちろんしばらくそのまま同じ会社で働いていた。ただ、同じ会社にいるとどうしても、出世やら昇給やらがモチベーションにならざるをえない。本当に申し訳ないけど、僕の性格上、そういうのマジ無理なのよ。。。


そもそも、出世や昇給というのは、適齢期に結婚して子ども持ってローンで家買って、子どもたち進学させて子どもたち独立させてしばらくして定年、、、という展開が前提となって成立してる幻想であって、つまり、ノンケ仕様な社会システムなわけだよね。


最終的には一人で生きる運命をどこかで感じているゲイピーポーにとっては、出世や年齢給などさほど魅力的ではない。むしろ、そうした幻想に縛られて自由な身動きが制限されることの代償のほうが大きいと思う。子ども時代から苦労してわざわざゲイやってるのに、なんでノンケと同じ道歩かなあかんねんっ!という話だ。(※あくまで個人の意見です)


というわけで、永住権取得後、しばらくの期間を経て会社を辞めた。


もちろん、不義理をするつもりはないし、したつもりもない。当時勤めていた会社では、時間的にも内容的にもかなり働いたから、スポンサーをしてくれた分の対価は十分にお返ししたつもりだ。その意味では、多少愚痴られても仕方がないとは思うが、文句を言われる筋合いはないと断言できる。(小言を言いたい気持ちは人間なので、理解できるが)


そんなわけで、ようやく自由の身になれたのだった。


ところがその直後、世間はコロナ禍に突入することになる。そしてその間、彼氏との同棲も解消した。というかすでに彼氏というよりは、その時点よりだいぶ前に、ほぼ同居してる弟という感じで、よく言えば信頼し切ってたし、悪く言えば情熱的な関係ではなくなっていた。可愛いとは思ってたけど、性的な関係ではなくなっていた。。


僕たちは、別々の家を探すことになった。いざ別れるとなると本当に悲しかったのだけれど、向こうが先にアパートを決めてきたから、僕も腹を括った。同棲していたアパートの退去期限ギリギリに僕のアパートも決まり、最後にお互いの引っ越しを手伝いあって、引っ越し作業後の最後のランチをマンハッタンのタイ料理屋で向かい合ってした。


しかし、いざ一人になってみると、その虚脱感たるや、想像の遥か上を行った笑


スーパーに行けば当たり前のように彼の好きなものを買って帰ろうとしちゃって、


あ、もういないんだ…


と思い出すたびに涙が溢れたことは、恥ずかしいけどほんとうだ。そこから数年が経った今だからこそ、こんなふうに振り返ることが少しはできる。


好きな仕事を好きなようにできる状況になったはずなのに、そういう気持ちになれない期間が続いた。


もちろん、コロナの状況も依然として先が見えなかった。


ひとつめの転機は、自宅近くの空港に、フライトスクールがあることを知り、そこに通い出したことだ。


荒唐無稽な話に聞こえるかもしれないが、このフライトスクールは趣味目的のスクールではなく、某リージョナルエアラインの養成学校で、卒業すると就職が保証されるというシステムだった。勢いでアプリケーションを出してみたはいいものの、どうせ通らないだろうと思ってたのだけれど、さまざまな身体的知能的検査や適性検査などを経て、通ってしまったのだった。仮に途中で断念したとしても、セスナの業務用免許でも持っておけば、観光飛行の会社でバイトできるかもしれないなどとも思い、そして何よりも単純に空を飛ぶ経験をしてみたいという好奇心が強かったので、入学することにしたのだった。


当初は順調だったのだが、どうしても着陸がマスターできなかった。その際、最大の原因は脚力の不足だと自分で思った。しかも、会社員時代のストレスと、コロナ禍の爆食いで溜め込んだ全身の脂肪も俊敏な動きを妨げていたことが明確だったのだ。


そこで、ジムに通うことにした。


目的は主に2つで、ダイエットと脚力の増強。


フライトスクール終わりにその足でジムに行くようになった。。


ところが、時すでに遅しだった。


その頃、ソロフライトに出るための最終試験があったのだけれど、この着陸に3回連続で失敗したのだ笑


着陸に失敗したと言っても、何も墜落したわけではない、、、笑


ていうか、いっそ墜落して楽になりたいくらいに思い詰めていた時期でもあったりしたけれど、そんなことしたら巻き添えを喰らうインストラクターに謝っても謝りきれないので、本気でちゃんと真面目に着陸の練習をしたのだけれど、どうしても当時の僕の身体能力ではラダーの操作に限界があったのだった。


こうして、着陸テストに3回連続で落ちた結果、ある日突然インストラクターと試験官とさらにその上の人との4人によるオンラインミーティングが召集され、ミーティング開始2分後くらいにクビが宣告され、3分くらいでミーティングが終了したのだった…笑


アメリカこっわ!!!



なるほど、これがザ・アメリカ。


雇用の流動性ってやつか!



こうして僕は、観光セスナのパイロットライセンスすら取れないままふたたび野に放たれたのであった……



そんな僕に残されたのは、ジム通いしてダイエットに励むという日課だけだった。


ときを同じくして、ロサンゼルスに行く機会があり、そこでとある20歳のノンケ青年と出会う。


彼は小柄ながらバレーボールをやっていて、バキバキ筋トレお兄さんだったので、筋トレのやり方などの話を聞くことができた。


その頃から、ジム通いの目的をダイエットから少しずつ筋トレにシフトしていったのだ。



一方、ダイエットに関しては、継続した結果、無事に目標達成したため、ポルノ配信を始めたのだ…(え、飛躍しすぎ…)


だって、せっかくダイエットしたなら活用しなきゃ意味ないやん


ポルノ配信の世界を覗いてみると、そこには多くのコロンビア人が活躍していた。


しかもガチすぎるイケメンが多くて、一体なんなんだ?この国は…


と驚愕し、興味を持った。


調べてみると、なるほど首都はボゴタというところにあるのか…とか。


次の転機が訪れたのは、去年の年末から今年の年始のことだった。


ロサンゼルスのノンケ青年が、ニューヨークのカウントダウン行ってみたいから泊まり行っていいっすか?と言い出したので、泊めることにしたのだ。


その滞在中、うちのアパートのジムで器具の使い方をパーソナルトレーニング状態でひとつひとつ教えてくれて、通ってる外部ジムにも一緒に行き、主要なトレーニングを教えてもらったのだ。


いや、マジで90分$300取れるレベルだよと彼に言ったら、


自分では当たり前すぎること伝えただけなのに、知らなかった人からするとそうなんですかねぇ〜


と、ピンと来ていない様子だった。


このときに教えられた内容が、ほんとうに冗談抜きで有益で、彼が帰った後、そこから本格的に筋トレをスタートすることになった。


その頃、ポルノ配信のほうでは、ラスベガスでパフォーマー限定パーティーの募集があったので、即申し込んだ。カバーチャージなしで1ドリンク無料、場所はラスベガスのチャイナタウンのバーだった。


超絶イケメンコロンビア人でも拝めるかしらと思ってソワソワしながら行ってみたものの、99%女子だったのだけれど、ラスベガスでストリップショーをやってるモデルさんや、有名らしいポルノ女優さんなどが参加していて、何気にたくさん絡んでもらえて楽しかった。。(ていうか実はそのときに変なもの吸わされたり飲まされたりしてヘロヘロになり、店に預けたクレジットカード閉めずに帰ってきてしまうといううっかりさんもあったが、ガチガチに楽しかった)何しろ、ポルノ業界のエネルギーと華やかさに陶酔したのだった。配信では味わえないアナログの交流ならではのテンションだった。


その後、ポルノ業界研究のために、コロンビアの首都ボゴタに飛んだ。そこでとあるコロンビア人ゲイ男子に出会った。


彼のアパートに夜中にのこのこと出向き、ベッドで話し込むと同時にいろいろ楽しいことなどをしたのだった…


そこで貴重な話を聞いた。それは、彼がかつて登録していたスタジオの話だ。


ポルノ配信サイトでは、コロンビア人が圧倒的に多い。要因は複合的だろうけれど、いくつかのヒントが見つかった。


そしてもう一つの情報は、スタジオのほとんどは、コロンビアの首都ボゴタではなく、第二の都市メデジンにあるというのだ。


そしてボゴタでは、世界最大のゲイクラブがあり、そこの店子の男の子とも知り合っていろいろ話を聞けた。(店子というか、バーテン的な人だったけど、勤務中だというのにゲイ出会い系アプリにメッセージをくれたので、その場で会った)


ちなみにそのクラブはTheatronと言う。読み方は、テアトロンで、テアトロンとはスペイン語でシアターという意味だ。


シアターというだけあって、巨大なステージとフロアがあり、そこのショーはまさに圧巻そのものだった。


やっぱりゲイ産業っていいな


本当に感動的な体験だった。


ちなみにTheatronは、まさにそこに行くためだけの目的でコロンビア旅行をしても間違いないくらい素晴らしいから、行ったことない人はほんとに一回行ってみてほしい…!


その頃、ポルノ配信も続けていたのだけれど、お客さんをただ待ってても時間の無駄なような気がしてきていた。ポルノ配信のメインは、画面に向かって勃⚫︎チソ⚫︎をしごいてる人が多いんだけど、コロンビア人とモノを比べたら、パイナップルと小豆くらい違うし、そもそもそんなに(若くないから…)元気じゃないし、というわけで、ちょっと違うことをしたいと思い、音楽をかけてダンスをしてみることにしたのだ。


これが楽しくなってきちゃった…


そして当初はスマホから音楽を適当に選んで流してたのだけど、だんだんレパートリーもなくなってきたので、DJ機材を置いて曲をミックスしながら踊ることにしたのだ。


ところが、DJ初心者だった僕としては、曲のジャンルもよくわからなければミックスの仕方も自己流だった。


そこでYouTubeでミックスの仕方を鬼勉したのはもちろんなんだけど、良心的な価格と適度なボリュームのDJオンラインスクールがあったので、とりあえずそれを受講して、ひととおりDJの基礎を叩き込んだ。叩き込んだというか、単純に楽しすぎてのめり込んだ笑


ところが、基礎がわかると、そこから次のステップに行くのが難しいというのはいろんな分野で共通することだと思う。


音楽でもスポーツでもなんでもそうだと思うけど、教則本とかで、基礎は売れるからたくさん出てるんだけど、基礎からその先に進む人は限られてくるから教則本も売れなくなったり、動画も再生されづらくなったりして、急に少なくなる。一方で、超絶達人みたいな人の動画とかはいっぱい出てきて、そういうのも参考には見てみるのだけれど、具体的にどういうテクニックを使っているのかがわからないままだった。


ちょうどそのころ、メデジンに行ってみた。それが今年の半ばのこと。


メデジンにも有名なゲイクラブがいくつかあった。


そこでDJの実際のテクニックを研究しようというのが、サブテーマだったのだ。


ちなみにいくつか行った中で、おすすめなのは2つあって、


ひとつは、


Club Oracuro


もう一つは、


Industry


このふたつは、メデジンのゲイクラブとして最高だった。


Club Oracuroはこぢんまりとしているのだけれど、だからこそDJブースとの距離が近い。ブースの近くで最初から最後までずっと見てたら、閉店時にDJさんが話しかけてくれて、一緒に写真撮ったのがマジでクールな思い出…笑


一方のIndustryは中箱。


2階建てで、フロアは曲のジャンルごとに3つに分かれてるんだよね。


とくに、2階のEDMフロアがメインで、DJも激しめでクール。1階はラテンとサルサで、こっちはゆったりムーディー系。


なので、メデジンに行くなら、とりあえずIndustryには必ず行けば激しめにも、まったりめにも楽しめるからおすすめ。


Club Oracuroも絶対楽しいんだけど、こっちは揺れるというよりかは友だちと立ち寄る系がベストかなぁ。


そんなわけで、メデジン全体を楽しみつつ、ゲイ業界のフィールドワークもしつつ、ラテン系のDJがどんな選曲してるのかとか知ることができたのがメデジン滞在だった。


その後アメリカに戻ると、所用でふたたびロサンゼルスへと飛んだ。


ここで3度めの転機が訪れたのだ。


それは、ロサンゼルスのバーやレストランでDJをしてる日本人のベテラン年上ノンケ男性との出会い。日本にいたときは、横浜でクラブイベントのオーガナイザーもやっていたらしい。


この奇跡の出会いにより、僕はその人にDJに関してたくさん質問や相談をすることができ、基礎で止まっていたところから、一気に問題が解決したのだった。


とくに、曲の入手の仕方なんかに関してもほんとうに勉強になった。あとは、キュー打ちと言って、曲の中に何箇所か目印になるポイントを打っておくんだけど、これにはいくつか原則はあるものの、決まったやり方というのはなくて、DJによってまちまちなんだよね。


そのあたりが僕的にあやふやだったんだけど、その人に相談してみたら、その人流のやり方を教えてくれて、マジでこれが目から鱗だった。


キュー打ちさえしっかりしてれば、基本的に大きな事故はないんよね。


あとは、オーガナイザーとして、クラブイベントの仕組みの話を聞けたのもほんとうに役に立った。


そこで、ロサンゼルスから戻ってから、ポルノ配信でNaked DJ配信を継続しつつ、ニューヨークに足を運び、情報収集をした。


当たり前と言えば当たり前なのだけど、業界に潜り込むためには、箱にアプローチするのではなく、主催者にアプローチしなければならない。


なるほど、たしかにっ!


って思ったわ。


ウリ専業界はどこもボーイを募集してるけど、DJやGoGoは普通表立って募集してることはない。


箱は文字通り箱貸ししてるだけだから、箱に問い合わせたところでちょっと筋が違う。


脱出ゲームの推理みたいにジワジワと真相に迫って行ったのだった…


これが、数ヶ月前から頻繁にニューヨークに足を運んでいた主な理由のひとつ。


その流れの中で、今回受けたのとはちがうオーディション情報に先に辿りついたんだよね


その流れで、芸を増やすためにとポールダンスを検索したところ、地元のスクールがマッチしたので即申し込みしたのだ。


そこではこの前の記事でも書いた通り、ハートフォードの地元ゲイバーで優勝経験もあるドラァグクイーンの人が先生で、これは本当にたまたまの出会いでまさに奇跡なんだけど、その人のショーやメイクや衣装が本当にエレガントで素晴らしくて、ドラァグクイーンの見方が180度真っ逆さまに変化したのだ。


そこでドラァグクイーンの歴史についても調べてみたところ、詳細は端折るけど、要は、社会が性別の壁を越えるための試みをする政治的なポジショニングだったらしいのだ。


これも心からの納得感があったし、ドラァグクイーンに対する理解と共感が深まった。


一方のGoGoボーイは、ドラァグクイーンとセットでステージに上がることが多いけれど、どちらかと言うと、政治的存在としてのドラァグクイーンを神輿として担ぎ上げるような存在であるらしいという僕なりの解釈に至った。だからこそ、ドラァグクイーンはマイクでたくさんド派手に話すし歌ったりもするけれど、その周りにいるGoGoボーイは決して声を発することはなく、黙々と踊り、ときにサポートする。


そうした背景に関心をもたらしてくれたポールダンスの先生との出会いの意義はほんとうに大きい。


そして、今回のオーディションに臨んだのだった。別に歴史に関する面接があるわけじゃないけど、背景を理解しておくことは、表現の前提として大切だと思うし、必ず役に立つ。表現にも影響してくるものだと思う。


オーディションの内容の話は、また次の記事で書きたいと思うよ。


さっき初ステージから自宅に帰ってきたばかりで、正直まだ脳内が興奮状態だから、勢い余ってかなり長く書いてしまったけれど、


このタイミングでここ数年を振り返ってまとめることができたのは、いい機会だったと思う。。