そして、いよいよ運命の「7月14日」が幕を開けます・・・


王冠1王冠2

1789.7.14 パリ市民が武器を求めて廃兵院を襲撃。

       バスティーユ牢獄が襲撃される(フランス革命の勃発)

      06:00 8000人が廃兵院を襲撃。大砲12門を押収。

         すぐ近くの陸軍士官学校、シャン・ド・マルスの練兵場には

         歩兵・騎兵・砲兵の大部隊が控えていたが、

         ブザンヴァル将軍は出撃命令を下さず。

     10:00一部の群集がバスティーユ到着。

         7月12日から13日にかけて、250樽の火薬5tが運び

        こまれていた。バスティーユは、司令官ベルナール・ルネ・ド・ローネー侯爵

        と、スイス兵32名、傷痍軍人65名が守っていた。

        ベルナール・ルネ・ド・ローネー侯爵は、譲歩につぐ譲歩で

       代表団を食事に招待したり、代表による要塞の視察を受け入れる。

      
     11:30 ベルナール・ルネ・ド・ローネー侯爵が跳ね橋を上げると

          群集はそれを攻撃開始の合図であると誤解した。 


          二人の男が塀を乗り越えて侵入し、司令部の

            中庭に通じる第一の跳ね橋を落とし、襲撃が始まる。


           守備兵と民衆が衝突。激しい銃撃戦により

           死傷者が出た(民衆側で98人)。

        
      15:30~ 群集側に大砲の用意が整い、敗北を意識した

           ド・ローネー侯爵は貯蔵されている爆薬により


           バスティーユを爆破するように指示したが、守備隊に


          よって阻止さ れ、要塞内部に通じる主門の跳ね橋が

           下ろされ、群衆がなだれこみ激しい銃撃戦が展開された。


        20:00 フランス衛兵が大砲5門を率いて到着。


            バスティーユ全体を群集が制圧し、


         七人の囚人が解放され、バスティーユは陥落した。

         命を助けてもらう条件で降伏したド・ローネー侯爵は

         数分のうちに捕らえられ虐殺された。

        また、パリ市長のフレッセルも


        この日の出来事への対応を 裏切り行為として咎められ、


        市庁舎から群集に呼び出されて


      出てきたところを惨殺された。
      
      司令官ベルナール・ルネ・ド・ローネー侯爵、パリ市長フレッセル

     らの首を槍の穂先に刺して、パレ・ロワイヤルで凱旋する群集たち。 

  議員のワンファン、ドルメッソン両議員も殺害され、首を槍の穂先に。

    ※ルイ16世、バスティーユ陥落の報告に対して


     「反乱か?」国王の衣装係ラ・ロシュフーコ・リリアンクール公爵は


    「いいえ、陛下、革命でございます」と答えた。

     しかし、まだこの時点では民衆はルイ16世のことは敬愛しており、

       ルイ16世を排除しようとまでは考えていなかった。

    夜、自衛のため、パリ市民が鋪石を剥がしてバリケードを作る。

     対するパリ駐屯軍は夜のうちに撤退した。


    7・15国民議会、バスティーユを襲撃した群集を

      「光栄に満ちたもの」「正義は民衆にあり」と賞賛。

     選挙人委員会、パリ市長にバイイ、パリ国民衛兵隊司令官

       にラファイエットを選出。

    7・16ルイ16世、立憲議会の要求を受け入れてネッケルを復職さ

        せる。王弟アルトワ伯爵(のちのシャルル10世)やコンデ公爵、

       王 妃マリー・アントワネットの寵愛を受けたポリニャック

      公爵夫人ら外国へ亡命。これらの有力貴族の国外逃亡により、

     贅沢品が売れず、失業増加。食料品は農民の暴動と

     行政機構の崩壊によって品不足に拍車。

    


   7月中~8月 大恐慌始まる。

    7・17ルイ16世、パリを訪問して鎮撫。バイイとラファイエットを承認、バイイから

       三色旗を受け取る。地方の農民が領主や徴税事務所を襲撃し、

      各都市では市民軍が設立される。

    ※ジャン=シルヴァン・バイイは、科学アカデミー会員で、フランス

     第一の天文学者。すでに五巻の天文学史を著していた。国民議会の

    初代議長。

    ※ルイ16世がパリ訪問を決意しなければならなかったのは、

    王族たちが当初国王をパリ東方約200㎞の国境に近いメッツ市へと

    亡命させようと計画した際に、ブロイー将軍から失敗すると止められ、

    諦めてパリ市民と和解するより他の選択肢がなかったからである。

    そして、王弟アルトワ伯やランベスク公らは国王を見捨てて亡命した。


   (亡命貴族)

    ルイ16世は王弟プロヴァンス伯に「もし自分が生きて帰れなかったら、

    王位を継承してくれ」と護衛もつけずに出向いて、

    市長バイイからパリ市の鍵を差し出され、アンリ4世の例を出され

   「あの時は国王が人民を再び屈服させたのですが、

   今度は人民が国王を再び屈服させました」

   と告げられた。

    7・18カミーユ・デムーラン、最初の革命マニフェスト

      「自由フランス」を公刊。

   7・25パリ・ コミューン成立。


   7・27農民暴動が各地で起こり、革命の波が地方に波及。

  8月 小麦取引業者、略奪を恐れて小麦を隠匿する。

     フランス東部での暴動。農民による領主館の襲撃。

   8・4封建的特権の有償廃止を決議。

     20:00 国民議会にてノアイユ子爵、領主特権の自発的放棄を訴える。

          エギヨン公、シャトレ公がこれを支持、全議員が拍手喝采。

          ナンシー司教ラ・ファール、教会の諸特権を放棄。シャルトル司教

          エクス大司教がこれを支持。さらにシャルトル司教が狩猟権を放棄する。

      ※農民による狩猟権の侵害。各地で狩猟や伐採が。これまで、農民たちは

      理不尽な狩猟権に苦しめられてきたからである。


   8・11封建制廃止令。

   8・17小麦の流通が停滞。パリの飢餓が危機的な状況に。

    8・25ラファイ エット、人権宣言の起草に協力。


    8・26ラファイエット起草の「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択。

       「人権宣言」とは、カトリックと正面から対立する精神原理である。

      カトリック=封建社会の原理

     人権宣言=新たな市民社会の原理の確立。

    9・11立憲議会、国王の停止的拒 否権を議決。

   9・12マラー、「人民の友」紙を創刊。

  9・15 国民議会にて国王の「拒否権」が審議される。


   10・1近衛兵の宴会で、マリー・アントワネットが三色帽章を冒涜。

     これがウ゛ェルサイユ行進に繋が る。


   10・2国民公会、保安委員会を設置。


   10・5パリの女性たちによるヴェルサイユ行進。

      16:30 小雨の中、5時間かけてヴェルサイユに到着。

           立憲国民議会会場を占拠し、議員たちと戯れる。

          議長ムーニエ、即席の穀物条令の裁可を国王に仰ぐ。

          女性たちの要求は「パン」

          「王妃の首を貰いに行くよ」と数々の暴言。

          パリからの市民増加で、近衛兵とフランダース連隊、ヴェルサイユ

          国民衛兵だけでは守り切れず。議長ムーニエ、4人の女性を王宮に案内。

          ルイ16世はムーニエとすれ違いで2人の女性の面会を許可。

          代表マリ・ルイゾン・シャブリ、パンがなく飢えていると訴えて

          気絶。国王は気付け薬とワインで介抱。戻ったシャブリは

          買収容疑をかけられ、再び宮殿へ。

          ルイ16世は小麦送付の証書。さらにバルコニーで


          シャブリの潔白を宣言。


      20:00  ルイ16世、馬車10数台を調達。200人の女性はパリへ。


            途中でラファイエット率いるパリ国民衛兵15000とすれ違う。

     22:00  国王ルイ16世、ムーニエ議長の要請で人権宣言を採択。



     24:00 ラファイエット到着。



 10・6 02:00 王と王妃は就寝。


     03:00 ド・ギーシュ、小隊を残して近衛兵を解散。


    05:30 暴徒が王宮に侵入。王妃の寝室を目指す。


         マリー・アントワネット、国王の寝室に退避。


    06:00 斧と小銃を持った暴徒が中庭に侵入、これを


         阻止した近衛士官が撲殺され斬首。


        近衛兵たちは退却しながらバリケードを築く。


        逃げ遅れた近衛士官も斬首された。

        暴徒たち「王妃の肝臓でシチューを作ろう」


       ラファイエットが覚醒し、国王へ提言。


       王と王妃、ラファイエットの進言でバルコニーに臨席。

       ラファイエットが機転を利かせて王妃の手に接吻。


      「王妃万歳」の声も。「国王パリへ」の歓声。


     民衆の頭上には二つの近衛士官の槍首があった。

    11:00 ルイ16世の宣言「パリに行こう。余にとって

         一番大切な家族を善良で忠実な臣民の

        愛情に委ねる」国王、チュイルリー宮殿へ移動。

    13:00 国王一家、ヴェルサイユを出発。

        

   10・10ギヨタン博士、立憲議会で処刑器具ギロチンの使用を提言。

   10・12国王と共に立憲議会も パリに移ることが決定。

       ルイ16世、チュイルリー宮殿で各国の大使を引見。

   10・14 ミラボー、議会に「暴徒鎮圧法」を提出し、

         ラファイエットもこれを支持。

        ※ミラボーはヴェルサイユ行進の直後、

        国王側近のラマルク伯爵を介して、

       国王をルーアンへ逃亡させる計画を提案したが、

       王弟プロヴァンス伯に握りつぶされてしまった。

  10・20 国民議会、フランス全土に戒厳令を発令。

       王族の外出に警備が。


      ネッケル発行の国債が銀行によって二度に渡って拒否される。

   11月ジャコバン・クラブの設立。

   11・2教会財産国有化を宣言。

   11・9 国民議会、パリへ移転。

  12・19アッシニアを発行(一回目は債券)。

  12・22地方自 治法を制定。


王冠1王冠2

とりあえず、1789年の動きをまとめてみました・・・

この時点ですでに流血・・・・