彼の声 2024.9.25 「汚物としての人格」 | 彼の声

彼の声 2024.9.25 「汚物としての人格」

voice-164

 なぜそう思ってしまうのか理解できないわ
けではなく、割と容易くわかることではある
にしても、それをそう理解してしまうと不都
合が生じるから、なるべく理解しないように
しているというと、何かおかしいことは確か
なのだが、そう理解しては行けない対象とし
てあんな人たちがいて、あんな人たちの方が
世の中で多数派を構成しているとすれば、そ
れがまずいことのように思われるのだが、な
ぜかそうなっているように見えるのが、そう
見えてしまう人の側に問題があるのかという
と、そう見えてしまう人にとっては、あんな
人たちを支持している世の中で多数派を構成
する人たちの方に何か深刻な問題があるよう
に感じられるから、そう感じられる限りでそ
う見えてしまうことを正当化できるような感
じになってしまい、それがまずいことのよう
に感じられるなら、何とかしてそう見えてし
まう認識を修正しなければならないかという
と、修正できないからそう見えてしまうとし
たら、こんな世の中は変えて行かなければな
らないと思いたいところだが、何の権力も権
限もない個人がそう思ったところで世の中を
変えられるはずもなく、そういうところで自
らを取り巻く世の中がおかしな事態となって
いるような気がして、しかもそういうところ
は割り切らないと生きて行けないような気に
なってしまうわけだが、その割り切る対象と
して最近何かと話題となっているのが野田佳
彦だと言えるかどうかも、何となく否定的な
偏見を抱く対象として彼が程よくメディア的
な話題の中に収まっているから、この時期の
期間限定的な存在として野田佳彦が一時的に
注目の的となっているかどうかも定かでない
が、もちろんあんな奴に注目している方がお
かしいと言われると、その通りになってしま
いそうで、どうせ今週末には別の誰かが注目
されることになるだろうから、野田などにい
ちいち言及している奴はどうかしていると言
われそうだが、それでもほんの数日の間は世
の中の汚辱に塗れた部分を野田が代表してい
るように見えてしまう限りで、野田もそれな
りに汚物のような存在感を発揮していると見
なしたいわけで、また野田を支える立憲民主
党の執行部の面々にも汚物的な雰囲気が感じ
られるのだが、今後の成り行き次第ではそん
な否定的な雰囲気を拭い去ることができると
期待したいわけでもなく、そのままでも構わ
ないような気がしてしまうとしたら、野田と
共に政治の表舞台から退場してほしい人たち
を巻き込んでくれれば、汚物が除去されたよ
うな清々しい気分になれるのだが、野田の巻
き添えとなってしまう人々がそれに気づいて
野田から離れてしまうとまずいような気もす
るから、野田には目立ってほしくはなく、今
後野田と対峙するのが石破なのか高市なのか
が数日後に決まるとしても、両者共に野田と
同じような汚辱に塗れた人だろうから、彼ら
も汚物として除去されてほしいわけだが、で
はそう思っている自分が彼らとは正反対に位
置する左翼やリベラル的な立場なのかという
と、それも少し違うような気もするわけで、
割と簡単に左翼やリベラルの典型のような立
場が存在すると仮定できるかというとできな
いような気もするから、では何なのかという
と、左翼やリベラルを嫌う人たちが罵倒する
対象としてそれらの立場が設定されているか
ら、そんな立場であるはずがないと思いたい
だろうし、自分は右でも左でもないと言いた
い人たちが、実質的には左翼でありリベラル
なのであるから、彼らが否定したい対象とな
る人たちが、彼らを左翼だリベラルだと罵倒
する人たちになっているとすると、何かそれ
がないものねだりのような様相を呈している
わけで、その中でも何か信用できる指標や基
準のようなものがあるかというと、平気で嘘
をつき、自身でも嘘をついていることを隠そ
うとしない高市を積極財政派だからという理
由で支持する人たちを信用できるかというと、
アメリカでも平気で嘘をつくトランプを支持
している人がいくらでもいるではないか、日
本でも平気を嘘をついていた安倍晋三への支
持が高かったではないかと状況証拠を並べて
正当化したくなってしまうが、そういうのを
受け入れられない人たちが、自分は右でも左
でもないと言いたいのだろうが、たぶん左翼
やリベラルに分類できるような人たちなのか
もしれないから、当人たちはそうじゃないと
否定はするだろうが、そうカテゴライズした
くなるような人たちなのだから、彼らの思い
など無視されても構わないような世の中にな
っている限りで、それなりにバランスがとれ
ているような気がするわけで、そういうとこ
ろであまり簡単に決めつけたりレッテルを貼
るのはやめ方が良さそうで、汚物のような野
田が汚物のような維新や国民民主と連携しよ
うとしていても、それを汚物のようだと感じ
られてしまうのだから、何かしら否定的な偏
見にとらわれていることも確かだが、そう感
じてしまう自身が左翼的あるいはリベラル的
な価値観にとらわれているかというと、それ
も単純にそうだとは言えないような留保が伴
ってきて、左翼やリベラルと見なされても構
わないのだが、その種の決めつけやレッテル
貼りには逆らいたくなってしまうのだが、だ
からといって自分は右でも左でもないと言え
るかというと、そう言うことにも抵抗感を覚
えるわけで、なぜ簡単に右でも左でもないと
言えるのか、なぜあえてそんなところを強調
するのかが理解できないと言ったら嘘になっ
てしまいそうだが、そうであるならそのつい
でに積極財政でも緊縮財政でもないと言うべ
きで、そういうことにこだわってしまうとこ
ろに違和感を覚えるわけだが、ではどう言え
ばいいのかというと、自分は右でも左でもあ
り、積極財政でも緊縮財政でもあると言えば
納得できるかというと、たぶんこだわってい
るのがそこにはないと同時にあるというと、
ではどちらなのかと問われるわけでもなく、
そんなことを問う必要がないと同時にあるよ
うなよくわからないところでもあり、そうい
うところを問題視する人の主張や意見がよく
わからないのかも知れず、では他に何を問題
視すればいいのかというと、政治や行政の在
り方が多くの人々が望んでいるような期待し
ているようなものとは違っていることを問題
視するべきだと思っているわけではなく、問
題視しなくても済んでしまうようなことなの
かも知れず、政治や行政によって全面的に統
治されるような世の中ではなくなってきてい
るのは昔からそうなのだが、それを理解して
いる人が相変わらず少ないから、政治や行政
に過大な期待を抱いて過大な課題を課すよう
な成り行きになっているような気がするわけ
だ。

https://www.koike-t.org