彼の声 2024.8.24 「クルド族と秦氏」 | 彼の声

彼の声 2024.8.24 「クルド族と秦氏」

voice-164

 SNSなどでよく見かけられる意見や主張
から窺い知れるのは、何かそうじゃないと気
が済まないような理想とする状況や状態を思
い描いていて、それが実際にはそうなってい
ないから、そんな現状が気に食わなくて仕方
がないような焦ったい思いに囚われている人
も世の中には多いようだが、それもそうなっ
て当然の思いになるだろうから、そう思うの
はその人の勝手だが、その人が気に食わない
部分というのが、気に食わない対象となる人
や団体との間で利害が食い違う部分だと認識
しておけば良いのか悪いのかが、それを利害
というと、そうじゃないと反論したくなって
くるなら、世のため人のためになっていない
から、そこはそうじゃないだろうと批判した
いのかも知れないが、要するに利己的な利害
で動かないで、世のために人のためになるよ
うなことをやってほしいと思うなら、その人
にとっての批判の対象となっているのが、公
的な政治や行政などに関わってくる人や団体
となるのだろうが、その中で団体に関しては
地縁血縁的な族という集団も含まれてきて、
最近民族差別などで話題となっているクルド
族なども族には違いないし、また日本の古代
で渡来系の一族で有名なのが秦氏だろうが、
クルド族も現代の渡来系一族と言えるだろう
から、時期が古代と現代とで違うが、迫害さ
れて日本へと逃げてきた経緯などは似ている
面もありそうだから興味深いのだが、クルド
族はイスラム系だが、秦氏が創建した神社と
いうのが、稲荷神社と八幡神社で、日本の神
社が全国で小さなものまで含めると、数十万
社にもなるようだが、一応はちゃんとしたも
のだと8万数千社と言われるようだが、その
中で数え方にもよるだろうが、稲荷神社が3
万数千社で、八幡神社が4万数千社だと、小
さなものまで含めすぎかも知れないが、かな
りの数の稲荷神社と八幡神社があって、しか
も稲荷神社の「イナリ」という発音が、キリ
ストの十字架図に書かれた「INRI」と似
ていて、ラテン語で「ユダヤの王、ナザレの
イエス」を示しているから、稲荷神社の神が
古代ネストリウス派のキリストであり、その
一方で八幡神社の神である八幡神をユダヤの
神である「ヤハウェ」と読めば、古代の秦氏
が持ち込んだ神が古代のイスラエルから伝わ
った神だと言えるだろうから、クルド族の大
部分が信仰するイスラムの神であるアッラー
(ヤハウェのアラビア語読み)とも一致して
きて、古代の渡来系一族と現代の渡来系一族
のつながりもそれなりに縁があるということ
にもなりそうだが、クルド族の中にはイスラ
ム教徒の他にもキリスト教徒やユダヤ教徒や
少数ながらゾロアスター教の流れをくむヤジ
ディ教徒もいるらしいが、古代のイスラエル
の民にしても現代のクルドの民にしても、定
住できずに流浪の民となってしまうと、生き
て行くには商業に携わらなければならなくな
るだろうから、自然と金儲けの傾向が身につ
いて、金儲けに成功して勢力を増してくれば、
地元で定住している人々との間で軋轢が生じ
てくることにもなるだろうし、そういうとこ
ろで経済的な方面から利害対立も顕著になっ
てくればまずいだろうから、そうならないう
ちにクルド人を叩いておかないとまずいだろ
うし、朝鮮人街や中国人街やインド人街やブ
ラジル人街に続いてクルド人街までできてし
まうと、何かと地元の日本人の肩身が狭くな
ってきてしまうことを恐れるのもごもっとも
なことだが、京都の太秦(うずまさ)などは
古代においては秦氏の街だったのだろうから、
そういうところも歳月が経過して行くうちに
何かと衝突しながらも日本人と混じり合って
くると、何でもないことになってしまうのだ
ろうし、そういえば群馬県の太田市周辺のブ
ラジル人街に近いところに多胡郡があったり、
前橋市に合併した町で大胡町という地名もあ
ったが、胡人というのが古代中国においては
北方や西方の異民族のことを指しているから、
古代において群馬県周辺で馬を飼って暮らし
ていたのが、その胡人であったらしいし、そ
の群馬県から山を越えたところにある新潟県
を含む北陸地方も越後、越中、越前と昔は呼
ばれていて、それが古代中国の越という国か
ら渡来してきた人々が住んでいた地域らしい
から、そういう意味で日本人といっても古代
まで遡れば渡来人の寄り合い世帯の様相を呈
してきてしまうわけだから、現代の川口周辺
でクルド人が差別されていると騒いでいる人
たちにしても、関東大震災の際には朝鮮人が
井戸に毒を投げ込んだと無実の罪を着せられ
て大量虐殺されたと叫んでいる人たちにして
も、それなりに差別を嫌悪する意識というの
が歴史的な経緯としての知識を土台にして育
まれている限りで正当化できるように思われ
るのだが、それが倫理的に人権意識となって
直接に人権を擁護することが正義であるよう
に主張されてしまうと、無意識に抱く経済的
な利害関係や生活習慣の違いから外国人を差
別したくなる嫌悪や恐れの感情を抱いている
人たちには納得が行かないだろうし、よそ者
のあいつらが好き勝手に振る舞ってうまい汁
を吸っているのを左翼の奴らが放置している
どころか、助けているのは許せないとなるの
も当然の成り行きに思われるのだが、じゃあ
クルド人が古代の秦氏のように日本の発展の
ために尽くすような成り行きへと持って行け
ればいいのかというと、それほどの経済力が
クルド人にあるとは思えないし、逆に秦氏の
ような力がある方が、それだけ当時の社会へ
の影響力が半端なかったということでもある
から、どちらかといえば古代の秦氏を現代に
当てはめれば欧米人のような立場なのかも知
れず、要するに経済力のある欧米人には逆ら
えないが、経済力のないクルド人ならやっつ
けることができるというわけで、それが経済
的な力関係でもある限りで、そういった経済
的な面を無視して、倫理的に差別は許されな
いという価値基準に持って行こうとしている
ところも、無意識にそれと意識することなく
正義の味方を気取りたいと見てしまい、ちょ
っと意地悪すぎるが、善意からそういう差別
反対運動をしてしまうと見えづらくなってし
まうのであり、それが義理人情でも構わない
のだが、もっと下世話な経済事情から見て行
けば、それなりに見えてくるものがあるだろ
うから、正義の味方のような態度で差別は許
せないと息巻いている人は偉い人なのだが、
偉い人は偉い偉いとおだてておけば良いとし
ても、直接的な面ではクルド人には普通の外
国人として接していてもそれほどの罪悪感を
覚える必要もないのではないか。

https://www.koike-t.org