彼の声 2024.2.24 「理屈の限界」 | 彼の声

彼の声 2024.2.24 「理屈の限界」

voice-161

 意識の限界が何から生じてくるかとなると、
その人が何かもっともらしい理屈を語ってい
る際に、なるほどその理屈に基づいて自身の
態度や姿勢を正当化していることを理解でき
るわけだが、果たしてそれがその人の限界な
のかというと、理屈を信じているように感じ
られるなら、その理屈がその人の意識の限界
を構成していることになるにしても、だから
といってその人から全く限界を越えた行動や
言動が生じてこないかというと、その人が囚
われている状況の急変がその人の意識の限界
を越えさせてしまうかも知れず、その人がそ
れを自覚していなくても認識していなくても、
それに気づいていなくても、自身の限界を越
えた行動や言動が突発的に出てくるなら、そ
の人を取り巻く状況が急変したから、それが
その人の限界をぶち破ったことになるだろう
が、そうなっても精神が特定の理屈に支配さ
れ続けている人も世の中にはいて、それが意
識ではなく精神になると、しかもその精神を
根拠づけているのが特定の差別や区別に起因
した理屈になるなら、その理屈によってその
人の頭の中の神経回路が単純化されているこ
とを知るに至るわけだが、そういう意味では
その種の差別的な発言を不用意にしてしまう
政治家や識者などは、もちろんわざとこれ見
よがしに言い放っている場合も十分に考えら
れるものの、脳の神経回路の中で条件反射的
な特定のパータンで信号が伝達される仕組み
が構築されていると言えそうだが、そうした
言語的な単純作業に特化した脳を持っていな
い限りは、普通はその場の状況に応じて無意
識の精神領域がある程度の弾力的なさじ加減
が可能な範囲内で働いて、事態の急変などの
その場の雰囲気を敏感に感じ取って即興的な
行動や言動もできるから、その場の偶然が作
用するにしても、唐突に自身が信じているつ
もりの理屈から逸脱してしまうこともあるだ
ろうし、そうした突然の逸脱をどう捉えるか
も、その人の限界を越えさせる契機としてう
まく活用できれば、それなりに行動や言動の
幅が広がるかも知れないが、そうした緊急事
態に際して特定のスイッチが入る人が貴重な
存在かどうかも含めて、普段の日常生活の中
で単純な理屈を信じているつもりになってい
る意識が、それと引き換えにして何を眠らせ
ているかがわかりにくいところかも知れない
が、思考の柔軟性を意識するなら、単純な理
屈から生じてくる偏見や固定観念の類いに支
配されるのはまずいと思うだろうし、そうな
ってしまうのが避けなければならない状態だ
と言えそうだが、逆にわかりやすい偏見や固
定観念に囚われている人は操縦されやすいと
も言えそうで、その偏見や固定観念から生じ
てくる態度や姿勢を強調する傾向へと誘導し
やすく、簡単に言えばそれが指し示す対象と
なる人や集団などと対立させたり敵対させる
ことが容易に可能となるだろうが、そういう
意味では安易な理屈に囚われている人ほど利
用されやすいとも言えそうだが、そもそもそ
んな利用しやすい人たちを利用して何らかの
権力を得ている人や団体が優れているかとい
うと、逆にそんな人や団体についているとヤ
バいんじゃないかと思っておいた方がよさそ
うで、もちろん実際についている人がそう思
うわけでもないだろうし、自分がそれらの人
や団体に利用されていることを意識している
としても、今は確かに弱い立場だから利用さ
れているだけだとしても、そこから集団内で
力をつけて強い立場へとのしあがろうとして
いるのかも知れないし、それをファシズム的
な権力関係と見なして否定するのは簡単なこ
とだが、そう見なしてしまうこと自体がそう
した関係を単純化していることになり、すで
に意識が単純な理屈に支配されている傾向を
示しているわけだが、それもその人を取り巻
く状況の余裕のなさがそうした傾向になるこ
とを促すのだろうから、そうなってしまう人
にいくら注意を喚起しても、そうなってしま
うのを押しとどめるには至らないかも知れな
いが、そうではない人や集団の関係や在り方
が一定の傾向を伴って意識されるとしても、
その中では単純な理屈が通用していないのか
というとそうでもなく、それをそれほど信じ
ているわけでもなくても、何かのついでやき
っかけからそうした理屈に頼った行動や言動
が伴ってくるから、それが絶えず過ちや誤り
となるような結果をもたらすのだろうが、そ
れを過ちや誤りだと認識している限りでそれ
に起因してもたらされた結果から反省や教訓
を得られて、そこからそうした理屈の限界を
感じ取ることができるわけだが、逆に言えば
それを過ちや誤りだとは認識できなければ、
その限界を感じ取ることができないわけだか
ら、そうなっている限りでそれを信じている
ことになり、そうした理屈に心や精神を支配
されていることになるわけだが、そこに限界
が生じていると共に、その限界をぶち破るよ
うな出来事に遭遇しないと、それを過ちや誤
りだとは認識できないわけだから、そうした
理屈に心や精神を支配されている人は、なる
べく自身の限界をぶち破る出来事には遭遇し
ない配慮が求められているわけでもないのだ
ろうが、それなりに用心深く立ち振る舞って
いて、その用心深さが何をもたらしているの
かというと、意識して思考や視界の視野を狭
めて、なるべく雑念を排除するために目を閉
じて耳を塞いで、ひたすら瞑想に耽っている
わけでもないのだろうが、自然とできるだけ
込み入った難しいことは考えないようにして
いるとも思っていないにしても、自然とそう
なるように仕向けられているといったところ
で、自身では意識できないだろうし、意識で
きないからそうなってしまうといっても循環
論になってしまうが、言語的な訓練を伴って
断言口調が身についているようなら、集団の
訓練として大きな声で単純な掛け声を発する
行為を繰り返している場合もあるから、そう
した体育会系の部活などの経験から自然と意
識することなく身についている可能性もある
わけだが、それを思考を通さずに大声を発す
る訓練と言ってしまうと、やはりそれ相応の
反発を招くかも知れないが、そんな人を集団
にまとめて制御したり操縦する術を当然のこ
とのように学校教育などの場で活用してしま
うと、結果的に何が生じてくるかというと、
それなりに統率の取れた集団が生じてくるは
ずなのだが、それが確かに工場などの現場で
は必要な調教なのだろうが、そういった単純
化された人材がどれほど必要とされているか
は、たぶん20世紀的な産業の現場ではそれ
なりに必要とされていたのだろうが、21世
紀の現代においては何とも言えないのかも知
れず、少なくとも国家主義的な見地からも若
者がそうなってしまうと、別に戦争に駆り立
てられるような消耗品の兵士がそれほど必要
かというと、できればもっと頭脳明晰で頭の
良い人材が必要とされているようにも思われ
るだろうし、頭が良ければそれなりに扱いに
くいし、扱う側でもそれなりの優秀さが求め
られるにしても、結局は人の頭脳の傾向が次
第に頭が良くなるように進化しているとすれ
ば、たとえ扱いづらくてもなるべく複雑なこ
とが理解できる頭の良い人材が求められてい
るのではないか。

https://www.koike-t.org