彼の声 2024.2.10 「宗教とは違う経緯」 | 彼の声

彼の声 2024.2.10 「宗教とは違う経緯」

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 単純に考えて信じられないことと信じてい
ることとが一致するはずもないが、そもそも
何が信じられなくて何を信じているかについ
てはよくわかっていないのかも知れず、信じ
られないことも信じていることもどちらも自
覚していない場合がありそうで、自分が信じ
られないことを他人が信じている可能性なら
大いにありそうなのだが、また信じられない
ことを信じている人たちがカルト的な宗教の
信者には多いと想像できそうだが、それがあ
からさまなカルト宗教ではなくても、逆説的
に〇〇には騙されるなと煽り立てる輩が信じ
させようとする偏見の類いには警戒してしま
うが、騙されなくても広く世の中で信じられ
ていることが、特定の宗教の教義に含まれて
いることであっても、その宗教自体が以前か
ら広く慣習として信じられてきたことを認め
ることによって、それを信じている人々がそ
の宗教を信じやすくなる効果があるから、そ
ういった世の中の多くの人々に信じられてい
る慣習を取り込むことによって、その宗教の
教えが世の中に広まって行くのだろうが、そ
れが宗教でなくても保守的な慣習を信じて受
け入れている人々が世の中に多くいれば、保
守政党などもそんな慣習を利用して支持者を
増やそうとするだろうから、たとえ信じてい
なくても慣習に従うことによって、その慣習
を信じて従っている人たちを支持者に取り込
みたいだろうから、例えば正月などに有名な
神社に参拝する光景をこれ見よがしに見せつ
けるようなことが行われているだろうし、ま
た差別主義者を味方につけるためには実際に
政治家が差別発言をするわけだが、その差別
が例えば男女の役割分担などの慣習に基づい
ている場合にはもっともらしく感じられるわ
けだが、しかもそれが単に男は外で働き女は
家庭を守る程度の内容であるなら、あまり差
別とは感じられないわけで、実際にはそうと
も言い切れないのに、産業革命以来の核家族
化によって、そんな神話が信じられてきた経
緯もありそうで、もっとも奴隷制が発達して
いた古代のギリシアやローマでは、世の中の
大多数を占める貧しい人々から嫉妬や羨望の
眼差しで見られる裕福な市民階級の家庭では、
確かに男は外に出て政治や戦争に参加する一
方で、女は奴隷を使って家庭を取り仕切るよ
うな制度が確立されていたのだろうから、そ
れと産業革命期の男が工場で働いて女が家庭
で内職と子育てをする役割分担とは雲泥の差
があり、そこでも大多数を占める貧しい工場
労働者から嫉妬や羨望の眼差しで見られる裕
福な工場経営者や資本家の家庭では、奴隷の
代わりに召使いや小間使いを使って女が家庭
を取り仕切っていたのだろうから、そうなる
と男女差別ではなく単なる男女間の役割分担
でしかなく、それよりは貧富の格差の方が目
立ってしまうが、産業革命以前の農民が人口
の大多数を占める社会では農作業は男女共働
きで、子供の世話などは体力が衰えて働けな
くなった老人が主に担当していた頃の家族構
成では、男女差別など生じてこないわけだか
ら、産業革命を伴った歴史的な経緯から男は
外で働いて女は家庭を守るという役割分担が
当然の慣習として信じられてきたのだろうが、
さらなる産業の発展期においては一概に家庭
を守るといっても、子供は保育園や幼稚園や
小中学校に通わせればよくなったし、電化製
品の普及によって洗濯や掃除や料理なども楽
になって、スーパーに行けば調理済みの惣菜
も売っているし、男女共働きでも家庭を維持
できるようになったわけだから、そんな歴史
的な経緯から男女差別というか役割分担も、
それほど固定化する必要もなくなってしまっ
たのと同時に、その代わりに男女間の賃金格
差や職場内での差別的な待遇などが問題視さ
れるようになってきたのだろうが、そういう
ことを考慮に入れるなら、いつまでも昔なが
らの慣習を固定化しておくわけにも行かなく
なって、無理に固定化しようとすれば、それ
が現状を無視した偏見に基づいた差別だと感
じられてしまうから、改める必要が生じてき
たのだろうが、だからといって実際に慣習に
守られながら優位な立場や地位を占めている
者たちにとっては、急に慣習が改まってしま
うと都合が悪いわけだから、理性を働かせて
政治主導で法整備や制度を設けて差別をなく
すような試みには、建前としては賛同するに
しても裏では抵抗していて、法律の類いはこ
とごとく骨抜きにしようとするから、しかも
他にも慣習を守ることによってその地位や役
職を占めている、社会の中で主導権を握って
いる各種団体の管理職などに就いている者た
ちも味方となるから、そうした抵抗勢力によ
る有形無形の妨害活動や妨害工作を打ち砕く
のは難しいわけだろうが、それ以上にそれが
慣習でなくても現状でうまく回っている面を
改める気にはなれないわけで、しかもそれが
ゲームのように敵と味方とに分かれて対戦形
式で動作しているところでは、そのゲームに
参加させてもらえない者たちには不満が溜ま
ってくるだろうから、そんなゲーム自体を茶
番だ何だのと外部から野次りたくなってしま
うのも、その気持ちはよくわかるにしても、
ゲームの参加者の方はそんな奴らを相手にす
るのは面倒だから無視してゲームに専念する
だろうから、それが国会の論戦でもテレビや
ネットの討論番組でも、ディベートゲームに
それなりの人数が参加して何やら論議してい
る内容に何の意味や意義があるのか、そこだ
けを切り抜いて強調してみても何でもないよ
うなことだが、そんな制度に従いながら世の
中のコンセンサスを作り上げようとしている
わけだから、それが直接ではなく回りくどい
同調圧力のようなものだと捉えるしかないだ
ろうし、そこで形だけでも議論を深めたとい
う既成事実を作りながら何かが決定事項とし
て提示されるような成り行きへと持って行き
たいのだろうから、そうした決定の押しつけ
に逆らうにはゲームそのものを成り立たせな
いようにするしかなく、ゲームをぶち壊すよ
うな行為が求められてしまうわけだが、そう
した過激な性急さが世の中の幅広い支持や賛
同を得られるかというと、世の中の大多数の
人々がゲームをうまく回していくのに必要な
慣習に囚われている限りで、大した支持や賛
同も得られないばかりか、そんな過激な行為
に訴えてしまう者たちはゲームが行われてい
る場から退場させられてしまうだろうが、そ
れがこれ見よがしなパフォーマンスという別
のゲームでは有効に機能していることにもな
るから、プロレス的な場外乱闘劇と捉えてし
まうと、それも場外乱闘という決まりきった
慣習に則った行為だとも言えてしまうから、
お決まりのポーズで観客の気を引くプロレス
ラーがリングの外で折りたたみ椅子を振り回
している光景を思い浮かべて安心感を覚えて
しまえば、その種の演技としての過激さにも
それほど感動も伴わないわけだが、そういう
見せかけだけのゲームに実質的な効力を伴わ
せるには、現実の世の中で何かしら人々の状
態に変化がもたらされないと実感も伴ってこ
ないから、しかもその実感が否定的なもので
はないことが求められているはずだが、相変
わらずひどい実感しか伴っていなければ、そ
れらの慣習に基づいたゲームも依然として空
回りし続けていることになるわけだ。

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