彼の声 2024.1.16 「事実のねじ曲げ」 | 彼の声

彼の声 2024.1.16 「事実のねじ曲げ」

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 大したことでもないのにさも大変なことが
起こったかのように騒ぎまくりたいわけでも
ないのだが、政府という公的な機関に戦いを
挑んでいるつもりが、国家に戦いを挑んでい
るかのように受け取られると、戦う相手が政
府から国家に変わると何が違ってくるのかと
問われてしまうわけでもないが、それもわざ
と事を大げさに捉えて、国と戦うのは国家に
対する反逆だと騒ぎたい輩がうじゃうじゃ湧
いて出るようなイメージを妄想したいのなら、
国と戦うとはどういうことなのかとさらに問
いたくなってしまうわけでもなく、実態は戦
っているのではなく、捉えようによってはそ
れとは真逆の、災害にかこつけたボランティ
アの人助けに過ぎないのだが、政府が行なっ
ている救助活動の邪魔をするなとまるで縄張
りを荒らされたかのように怒りを露わにして
民間で勝手にやっていることを攻撃したい気
持ちもわからないではないが、政府と民間と
の競合関係というと、別に人助けを競い合っ
ているわけでもなく、助ける対象となる被災
者たちがいて、それを政府と民間との間で奪
い合いに発展しているわけでもなく、逆に政
府の対応が後手に回って遅すぎるから、民間
のボランティアたちが被災地域に入り込んで
率先して一人でも多くの人たちを助けようと
していると事態を捉えるなら、事実をねじ曲
げて伝えていると受け取られてしまうわけで
もなく、普通はそんなふうには思わないはず
だが、そこから政府とは何なのかとか、国家
とは何かという根本的な問いが発せられるよ
う成り行きへと話を持って行くのは、やはり
事を大げさに捉え過ぎているような気がして
しまうが、果たして政府があったり国家があ
ったりすることが根本的な問題なのかと問う
ならば、否と答えたいわけではなく、初めか
ら政府や国家があったわけではなく、対外的
な事情から政府や国家を形成せざるを得なか
ったわけで、それが日本と呼ばれる地域では、
一度目は飛鳥時代に中国の隋唐帝国と対峙し
た時に、また二度目は江戸時代末期に西欧の
列強と対峙した時に、中央集権的な国家を形
成せざるを得ない事情が生じてきたわけだが、
それらの延長上で行われていることが他の何
に対しても優先されなければならないわけで
もなく、政府が警察や軍を使って民衆を脅し
ながら税を強奪しているとか、それに対抗し
て民衆の側も反乱を企てているとか、そんな
物騒な話ではないはずだが、それだけでは話
の構成が不十分であり、警察や軍を使って民
衆を脅して抑圧しているだけでは政府による
国家統治はうまく行かないわけで、脅す一方
で民衆に対して富の幻想を抱かせる必要があ
り、それが飴と鞭ならぬ、権力の行使による
抑圧を覆い隠す目的があるわけではないはず
だが、実際に国債の発行量や通貨の流通量を
経済の景気循環に合わせてうまく調整するこ
とによって、あたかも民衆が経済的に豊かに
なったかのように錯覚させることに成功すれ
ば、それによって国家の統治がうまく行って
いるように装えるわけだが、果たしてそんな
やり方で民衆を騙せるのかというと、騙すつ
もりもないのは、国家統治に加わっているつ
もりの官僚や政治家などの方が国家という幻
想に騙されていることの証しとなるわけでも
ないが、たぶん騙すとか騙されるとかいう否
定的な意味で国家統治を解釈してほしくはな
いだろうし、もっと肯定的な意味合いを伴っ
た言葉を使えば、それが政治宣伝の類いにな
ってしまうにしても、事態を前向きに捉えら
れるはずだが、それも実際に民衆が物心両面
での経済的な豊かさや治安の面での身の安全
を実感できなければ、政府への支持が集まら
ないはずなのだが、支持が集まらなくても軍
や警察を使った脅しによって民衆を強制的に
従わせればうまく統治ができているように装
えるはずだが、そうなると北朝鮮やロシアの
ような統治形態となってしまうから、民衆の
間で不平不満が渦巻いているはずだと思いた
いところだが、力よる統治を強いている側に
民衆を心理的に引き込むことに成功すれば、
そうやって民衆が洗脳されている限りでそれ
ほどの抵抗感や反感は芽生えてこないだろう
し、そんなファシズム的な国家統治を意識し
て目指しているわけではないはずだが、実際
に地震の被災地で民間のボランティアが人助
けをしているのを快く思っていない人たちは
そんな心理状態へと傾いているのかも知れず、
さらにそれに輪をかけて山本太郎などがしゃ
しゃり出てくれば、それ自体が政府への敵対
行為であり、あからさまに災害のどさくさに
紛れて国家への反乱を企てていると妄想した
いわけでもないだろうが、それに近い心理状
態だから執拗に攻撃しまくるわけで、それだ
けファシズム的な国家統治には多くの人々が
魅力を感じるわけだが、果たしてそれで構わ
ないのかというと、もちろん民主主義を信じ
ている人々にとってはファシズムなどあって
はならない事態だろうし、そうならないよう
にするにはどうすればいいかと国家の制度や
法律の面から工夫を凝らしたいだろうし、そ
れに対する現状での最適解が日本国憲法を守
ることだと思い込んでいる人もいるからこそ、
ファシズム陣営にしてみれば一刻も早く憲法
を改正して、国家のファシズム化への障害を
取り除きたいとあからさまに思っているわけ
ではなくても、薄々は勘づいているから、し
きりに憲法を改正しようと画策しているわけ
だろうが、何かそういうところで誰もが国家
統治の矛盾をはっきりと意識しているわけで
はないはずだが、ただ漠然と危機意識は共有
しているものだから、ひとたび大規模な自然
災害などが起これば、その種の危機意識が顕
在化してきて、政府と一体となって国を守ら
なければならないとあからさまに思うわけで
はないにしても、多くの人々が国家的な危機
に呼応してファシズム的な心理状態に囚われ
てしまうから、大したことは何もやっていな
いどころか、実際には迅速な対応もできてい
ないのに、なぜか政府に対する支持がそれな
りに高まってしまうのかも知れないが、そこ
でファシズムの誘惑に乗ってはならないと警
鐘を鳴らすのも意味がわからないし、誰もが
国家の統治に加わって権力を行使したいと思
いたいなら、結局は民主主義的な統治に落ち
着くしかなく、それではほとんどの人たちが
選挙で投票する以外には何もできないから不
満だろうが、統治とはその程度のことだと思
って引き下がるしかなく、それが間接的に行
使される国民主権の実態であり、大して魅力
など感じないだろうが、その一方でファシズ
ム的な魅力というのもせいぜいが実体のない
幻想の共同体を妄想させているだけのことだ
と思っておくぐらいが無難なところなのでは
ないか。

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