彼の声 2023.10.3 「あいまいな結果」 | 彼の声

彼の声 2023.10.3 「あいまいな結果」

voice-159

 その場の成り行きが自分に有利に働いてい
るなら、成り行きに従う限りで何でもできる
わけでもなくても、やれることなら何でもや
ろうとするだろうし、やれることの程度や傾
向も、その場の状況に応じて変わってくると
しても、それとは別に納得できて理屈に合う
ことをやろうとするかも知れないし、また社
会規範に照らし合わせてやっても構わないこ
とをやろうとするかも知れないが、結果的に
は矛盾した理屈に合わないことをやってしま
うかも知れないし、また社会規範に照らし合
わせてもやってはいけないことをやってしま
う場合もあり得るが、それがその場の成り行
きに従ってやっていることになるのかという
と、逆にその場の成り行きに逆らったことを
やってしまっていたり、あるいはどうとでも
受け取れるようなことをやっている場合もあ
り得るが、それをどう受け止めるかは、それ
を受け止める人の立場や境遇によって変わっ
てくるかも知れないから、そういう意味でも
結果的にどう受け止めればいいのかよくわか
らなくなってしまえば、その結果が自らに有
利なのか不利なのかもわからず、その場の成
り行きに従って動いたつもりでも、結果的に
有利にも不利にもならなければ、自身の行動
によって中立的な立場へと導かれたと判断す
ればいいのか、あるいはどうとでも受け止め
られるような行動や行為しかできなかったの
か、その辺も何とも判断がつかないかも知れ
ないが、そんな結果に至ってしまった理由が
わからなければ、はじめから特に自らを有利
に導こうとして行動したわけでもなければ、
では何のために行動したのかといえば、その
場の成り行きに従って行動しただけであって、
成り行きに従ったからといって、それによっ
て自身が有利になるとも不利になるとも限ら
ず、そうなった理由は定かでないが、何かに
導かれるようにして行動したのだとすれば、
今もそれが続いていて、得体の知れない何か
に導かれるようにして行動している最中なの
かも知れず、それが自らの利害とは無関係な
作用に従っているに過ぎなければ、行動した
ところで、結果的にはどうなるわけでもなく、
今のところは結果の良し悪しなど言う段階で
はないとすれば、さらに行動しなければなら
ないのかも知れないが、やはり行動したとこ
ろでその良し悪しなどわからないような結果
に至ってしまうかも知れないし、今はわから
ないかも知れないが、後からわかってくるな
らそのまま行動を続けるしかないし、そうい

う意味では良し悪しが判断基準となるわけで

はなく、さらには損得勘定もそれほどはっき

りしなければ、行動するにあたって何か判断

の指標となるような物事があるかというと、

これといってあるわけでもなく、では迷った

ら行動しなければいいのかというと、行動し

ないわけにはいかない成り行きに囚われてい

るとしたら、わけがわからなくてもなぜか行

動せざるを得なくなり、そんな成り行きに従

って行動してみたところで、何がどうなるわ

けでもなければ、そんな状況をどう捉えたら

いいのか判断がつかないだろうが、良し悪し

も損得も判断しなければいいわけで、無理に

判断する必要はなく、判断するのに都合が良

くなるまで待つしかないのかも知れず、それ

までは判断を保留したままさらに行動を促さ

れて、実際にそんな成り行きに従いながら行

動を続けていれば、いつか良し悪しや損得を

判断する機会が巡ってくるかというと、その

時が来たらわかるようなことでもないのかも

知れず、意外と判断の機会を見失ったまま、

判断すること自体がどうでも良くなるような

状況の変化が起こってしまえば、それまでに

囚われていた成り行きも雲散霧消してしまい、
いったい何のために動いてきたのかのかも、
その理由が問われることもなく、いつの間に
か時代状況が様変わりしてしまったことに気
づく必要もないほど、価値観が一変するよう
な出来事を経験する機会など、人の一生のう
ちでそう何度も巡ってくるわけもないはずだ
が、自らが関わっているつもりの物事の連続
性や継続性に執拗にこだわっていると、それ
を何度も経験したところで、そんなのは全く
眼中にないのかも知れず、それ自体がどうで
もいいことだと思えるほど特定の価値観に凝
り固まっていれば、世の中や時代がどう変わ
ろうと、これまで通りの価値観に囚われた思
考によって物事を判断するから、確固たる善
悪や良し悪しや損得の判断基準に基づいた判
断ができるのだろうが、それが通用するよう
な世の中になっているのかというと、通用し
なければ世の中の方が間違っていることにな
るから、そんな世の中は変えなければならな
いと主張することになるわけだが、果たして
その人の力で世の中を変えることができるか
といえば、人ひとりの力では変えられないか
ら、他の多くの人々に向かって協力してくれ
るように懇願するわけで、ではこんなひどい
世の中は変えなければならないと主張してい
る人が、果たして時代や世の中の変化につい
て行けない時代遅れな存在なのかというと、
ある面ではそうかも知れないが、その人の言
うことにも一理あるように思われるなら、そ
ういう面では時代や世の中の変化とは別に恒
常的に成り立つ普遍的な価値判断の基準とい
うものがあるのかも知れず、それがリベラル
的な判断基準となると、にわかにそれに対し
て反発したり反感を抱く人たちが湧いてくる
かも知れないし、その一方でそれが古来より
先祖代々受け継がれてきた慣習や伝統となる
と、今度は進歩的な思考の持ち主たちが顔を
しかめる番かも知れないが、それらを多重的
に同時並行的に判断しなければならないから、
一つの判断基準に凝り固まってしまうと、他
の判断基準がおろそかになってしまって、結
果的に時代状況や世の中の情勢にはそぐわな
いような判断を下してしまうから、そういう
判断には違和感を覚えるのだろうが、ではそ
んな判断では駄目なのかというとそうでもな
く、世の中にはそんな価値判断を共有する勢
力が執拗に存在しているから、そんな勢力に
属していれば、あるいはそんな勢力が世の中
で主導権を握っていれば、そんな判断をして
も構わないような時代状況となっていて、実
際にそんな価値判断に基づいて世の中が回っ
ているように思われる面もあるのではないか。

https://www.koike-t.org