彼の声 2005.12.10 | 彼の声

彼の声 2005.12.10

どこかで転換点が待ちかまえているのだろうか。
君は長すぎる文章に嫌気が差している。
もっと単刀直入に用件を述べてほしい。
何かの邪魔が入っているのかも知れないが、
とりあえず今は忙しくない。
ならばやる気のでない理由がわからないか。
言葉を繰り出すタイミングが合っていないのかも知れず、
出鼻を挫かれて、
曖昧模糊とした雰囲気に流され、
何を述べているのかわからなくなる。
そこからどんな話に持っていくつもりなのか。
たぶんそれはわざとらしい話の展開になると思われるが、
なぜかそこで黙ってしまうらしい。
そうなってしまう理由など何もありはしない。
それらの沈黙には
どんな意図と思惑が込められているのだろうか。
意図や思惑をねつ造している暇がない。
そして何を疑問に思っているわけでもない。
今は疑念を抱くような雰囲気でない。
ただ話の到達点が遠すぎるのかも知れず、
それに比例して空白の時間が長くなっている。
何もできずに最近はかなり人相が悪くなってきた。
誰かはなぜか気がゆるんでしまったらしい。
それでも何もやっていないわけではないはずだ。
画面上に映っているニュースでは
ありきたりなことばかりが述べられているが、
いつものようにそれの何が気に入らないのかわからない。
誰かが気を利かせて、
もっとマシなことを述べたらいいのだろうか。
しかし何がマシであるかについて確固とした基準はなく、
語ることのすべてが
くだらないことのように思われてくる。
君にはそれが不満に思われるのか。
何事にも心が動かず、
すぐに飽きてしまうだろう。
飽きてしまうからまた新しい何かを求めて、
誰もが気晴らしとしてのニュースに
群がっているのではないか。
だがそれで何を批判したいわけでもなく、
何となくそこでの時流に乗って、
それなりに提供される娯楽を享受するぐらいしか、
人の生きる道はあり得ないのではないか。
もちろんそれで生きている実感が得られるわけもなく、
生きていようと死んでいようと、
人一人に何か決定的な重要性があるわけでもない。
何が重要であるかについて、
人それぞれで重要性に対する認識も違ってくるだろう。
だがそれで何を述べていることになるのか。
君にとっては何が重要なのだろうか。
明確なことは何もわからない。
それが重要であろうとなかろうと、
そんなものは行動の指針にも
判断材料にもならないのかも知れない。
客観的にはやるべきことなど
何もありはしないのではないか。
だがやるべきことばかりやっているわけでもなく、
やらなくてもいいことばかりやっているわけでもない。
やってしまった後から悔やんだりするだけか。
それでは何をやっても
反省の材料にしかならないのかも知れないが、
やっていることのすべてが失敗の連続であるとすれば、
成功とはどういう状況になることなのか。
そんなことは実際に成功してみなければわからない。
そしてそういう意味での成功などあり得ない。
何事にも失敗し続けなければ、
やる気を失ってしまうのではないか。
もちろんそんな心配など杞憂でしかないが、
すでにやる気を失っている今こそが
成功を体験していることになるのではないか。
そんな状態が成功の証なら、
そんな成功など要らないだろうか。
それでも誰かが成功を必要としているのだろう。
言葉としては
自らがやってきた結果が成功だと認められたい。
だが現実にはそんなことはどちらでもかまわない。
何が成功で何が失敗なのかについて、
明確な認識をもてないようだ。
やはりそこでも判断基準の曖昧さが、
何らかの認識に至るのを
邪魔する障害となっているらしく、
判断するには至らずに、
結局そんなことはどうでもよくなってしまい、
何事にも本気になれない原因は
その辺にあるのかも知れない。
いったいそれ以外に何を思えばいいのだろう。
自らが実際に行っていることと、
現実に述べている内容には、
ほとんど関連性がないのかも知れない。
たぶんそれでは
何を述べていることにもならないのだろうが、
何らかの対象についてどう述べてみても、
本気でそんなことを述べているわけではないことに
なってしまう。
それはどういう嘘なのだろうか。
嘘ではないと思いたいようだが、
嘘をついているつもりの当人にとっては、
どちらでもかまわないのだろう。
だがそれがどういうことでもないとすれば、
そこから先にどう述べていいのかわからなくなる。
それはどこまでいっても
どういうことにもならないように思われ、
どうにもならないから途方に暮れてしまい、
ますます困惑の度が深まってくるようだ。
そして困惑すればするほどおもしろくなる。
嫌がらせとはそういうものなのだろう。
どこまでも感情の根が伸びてくる。
何をどこまでやってもきりがないらしい。
すでにそれを止めることができなくなっている。
感情的になればなるほど、
何をやっても満たされなくなってくる。
どこに歯止めを設定すればいいのかわからなくなる。
もはや歯止めが利かないのだから無駄なのかも知れない。
それは恐ろしいことだろうか。
そんな暴走の軌跡を言葉でなぞるのは楽しいか。
言葉がどこにあるわけでもない。
感情を言葉に変換するのを忘れているらしい。
君はそれらの状況のどこにも出現しないだろう。
神が降臨するのは虚無の大地だ。
人間の汚らわしい感情などすべて無視されてしまう。
くだらぬ思い込みはすべてご破算にして、
何もない場所で何も思わない精神が
真空を糧として空間的に膨張し続けている。
それはあたかも妄想を伴わない誇大妄想を
内蔵しているかのように思われてしまう。
たぶん矛盾しているのだろうが、
矛盾していなければ何も生じてこないだろう。
世界の真の姿がそこにあるのかも知れない。
何もないからこの世界は認識の対象となっているのだろう。
何かがあれば、それは利用の対象となってしまう。
そこから利益を出さなければならなくなるだろう。
無から有を生じさせる自信が詐欺師にはあるらしいが、
そんなことを繰り返していて虚しくならないか。
何もなければそれについて何も述べる必要はない。
しかしそれでも君は沈黙の言葉を必要としている。
すべての意識を沈黙させるには、
それに応じた言葉が求められるのだろうか。
言葉で他人を黙らせてどうするのか。
静かな日々を送りたいのだろうか。
だが静けさの支配にどこまで耐えられるのか。
そう述べて誰を心配しているわけでもなく、
何に耐えられないわけでもない。
もはやそんなレベルはとうにクリアしているつもりだ。
その自信がどんな勘違いを呼び込んでいるのかを
知りたいところだが、
やはりそれで何を述べているのでもないことを
確認したいらしい。
ただの言葉には文章としてのまとまりが
求められているようで、
そこから何らかの文章が構成されていなければならず、
そのわけのわからない文章の内容について、
何らかの説明が求められているのだろうが、
はたしてそれで説明になっているのだろうか。
たぶんそこで何かが説明されていて、
少なくとも現時点ではそう思われる。