デイサ-ビスでの昼食は、11時である。


調理場から運ばれてくるワゴンの中に、御飯をトングで摘まめる大きさに握ったのが一人前ある。それを介護皿に移しかえるのがスタッフの始の仕事。そのとき主菜が焼いた魚の切り身の場合、頼んでほぐしてもらう。その他、小皿に盛っている物は、老人向けに細かくしてある。

それができると、他の人より一足お先に私の前に持ってくる。


膝掛けをかけてもらい、食べ始める。初めはきれいに食べているが、だんだんと意識しなくなりこぼしはじめる。

最後はスタッフに介助を頼み食事を終える。


なんとも手間暇かかるお客だ。


1時半からのコーヒー・タイムのときも同じ。私のコップは大きい上に私が濃いのを好むので、初めは戸惑うらしいが慣れれば大丈夫。

一度、コップのコーヒーをぶちまけて以後、私の膝にタオルをおき、飲み終えるまでスタッフが隣に座っている。


やれるところまで、自分でやらそうという方針には手間がかかる。

介助を頼む場合は、その旨言う。スタッフは大変だ。









5週間に1度、専門医に診て貰う。


「はて、どうしましょう」、現況を聞いて診察の終わりに医者は言う。

打つ手がない。できるのは患者の訴えを聞いて、それに対し何か処方するのみ。


筋トレの方法も何度か教わったが、危なっかしくて止めてしまった。


汚い話だが、時に起きる頻尿は薬で解決している。

大の方は力が入らないのが悩みの種だ。こちらも薬に頼っているが、4、5日でスッキリするのでこちらも良しとする。


寝床についてから痰がきれにくくなったが、今はなんとかなっている。

東日本大震災の被災者のことを思えば我慢しよう




2004年12月26日、マグニチュード9.1のスマトラ沖地震による高さ35mの巨大津波で、16万人以上が犠牲となったインドネシア・アチェ州。復興にあたりユドヨノ大統領がとった措置は。


大統領は05年4月、復興庁を設置。長官に「清廉さ」で知られる人物を任命、給与も大統領以上とした。

復興庁は被災地の中心に設置され、現場に権限を委譲、復興を大成功させた。


同庁の役割は

①政府の復興基本計画に基づく各種事業の承認、入札など

②諸外国や国際援助機関、非政府組織(NGO)との調整

の二つ。


職員数は約600人、総予算は約67兆ルピア(約6300億円)だった。

省庁間の調整や支援の無駄を省き、迅速な意思決定も可能になった。

長官は「他の閣僚の許可を得る必要もなく仕事ができた。必要な人材もどんどん登用した」と言う。


当時、アチェは独立派と国軍が内戦中だったが、機運が盛り上がり和平合意し、その後は治安も安定している。


復興庁は09年4月に解散するまでに、再建家屋:14万戸、学校:1760校、道路:3700kmを手がけた。


世界銀行インドネシア事務所の前所長は「復興は大成功」と称賛したという。


長官は強調する。

「国も違えば文化も違う。復興に唯一の処方箋はないが、最も大事なのは被災者の声に耳を傾けることだ」と。


同程度の東日本大震災。その上、福島の原発事故だ。

言わずもがなだが、政府は参考にすべきだ。







ポーランド国営放送のスタッフ4人が、松山市のロシア人墓地を訪れ、取材撮影をしたと新聞は伝えている。


捕虜を厚遇したことで有名になったロシア人墓地は、日露戦争に従軍した12人のポーランド兵士も一緒に埋葬されている。

その日露戦争の僅か10年前、旅順港の攻防で知られる日清戦争を戦った日本軍の行動はどうだったのか。


「戦闘員と非戦闘員を区別なく襲撃、戦闘力を失った清国兵を殺し、民家から財産を略奪した」と世界のマスコミは伝えている。


日露戦争を始めるにあたり、国は捕虜優遇令を発布し、それを実行したのだ。

松山の名を広めた裏には、こんな政治的背景があったのだ。






我が県にも原発がある。伊方原発である。


1969年、伊方町臨時議会で誘致決議、70年、四国電力が建設着手。77年、1号機営業運転開始。82年2号機、94年には3号機が営業運転を開始した。


当時、伊方町の主産業は農漁業で、急傾斜地の畑で麦やサツマイモを育てていた。一方、都市部は高度経済成長で活気づいていた。収入も人口も増えず、取り残されるいっぽうの伊方町は、原発の誘致に走った。


その見返りにインフラ整備や雇用創出をでき、県内屈指の裕福な自治体となった。

財政力があれば農漁業の基盤整備もできた。


全国の地方・農漁村も同じ状況だった。


福島のような事故が起きれば、誘致は失敗といわなければならない。そうならないこと祈るのみ。