ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ―11 | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

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音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。

■エンタテインメントな人たち―11


 

PERSONZとの契約は偶然の出会いと担当ディレクターになった真田さん(そう、洋楽時代の3バカトリオの一人)の熱意により成し遂げられたと言える。まずは偶然のほうだが、これは私がBAIDISレーベルのプロモーションで全国のレコード店行脚を行っていたとき、東京池袋にある「五番街」というレコード店でPERSONZに出会ったのだ。当時はインディーズ・レーベルが全盛で、この「五番街」にはインディーズのレコードが大量に在庫されていたこともあり、有望なアーティストがいないかをリサーチに行ったのだ。そこで紹介されたのがPERSONZの「DEAR FRIENDS」という曲だった。この曲にしびれた!いや全身が震えた!と言ってよいかもしれない。とにかく興奮して会社に戻り、スタッフにPERSONZのことと「DEAR FRIENDS」のことを熱く語った。それがきっかけになり、ディレクターの真田さんと新宿のロフトだったか渋谷のライブインだったか忘れたが、とにかく二人でPERSONZのライブを見に行った。そこで歌うヴォーカルJillのインパクトもかなりのものだったが、リード・ギターを弾く本田毅がとにかくカッコイイ!何としてもこのグループを獲得したい!という情熱しかなかったが、様々なライバル会社を押しのけPERSONZがわれらのBAIDISレーベルと契約してくれたのはひとえに真田さんのPERSONZへの愛と情熱だったと思う(もちろんアドバンスという印税の前払い金やコンサート援助金もそれなりだったが)。

 



 

 

 

 

PERSONZのデビューについては名曲「DEAR FRIENDS」を最初にシングルとして出すべきだという意見が営業に多かったが、われわれというか真田さんは断固反対した。「この曲はここぞというときに使う切り札だから、今使うわけにはいかない」彼の戦略は明快だった。さすが神童と言われた人は違う。こうして19879月、SIONに続きPERSONZがアルバム「PERSONZ」でBAIDISからメジャー・デビューした。SIONPERSONZBAIDISレーベルの2枚看板になったのが影響したのか、その後BAIDISからは短期間に多くの新人バンドがデビューした。その一部を紹介しよう。

 

 

 


 

19874月には、実力派のロック・バンドSHADY DOLLSがアルバム「GET THE BACK」でデビュー。

198711月には、ネオモッズ系といわれたTHE COLLECTERSがアルバム「僕はコレクター」でデビュー。

198810月には、アイドルの要素を持ったロック・バンドKATZEがアルバム「BLIND」でデビュー。

19903月には、いか天出身のBEGINがシングル「恋しくて」でデビュー。


 

BAIDISの快進撃が始まり、それからの数年間、足かけ64年続いた昭和が終わって平成と命名された時代に入るまでの数年間は、まさに無我夢中で駆け抜けたという表現がふさわしい。東京採用の3人の課長はいま振り返るとよく倒れなかったものだと思うくらい昼夜を問わず仕事をしたが、辛いとか、苦しいとか感じたことは一度もなかった。


 

こんな状況の中でいよいよPERSONZの名曲「DEAR FRIENDS」を仕掛けるタイミングがやってきた。この頃になるとテレビドラマやCFとのタイアップが盛んになり、各レコード会社には必ずといってよいほどタイアップセクションができていた。「DEAR FRIENDS」は、19892月に発売された当初はノンタイアップ曲だったが、宣伝担当高木課長の尽力で同年4月から始まる田村正和主演のTBSドラマ「ママハハ・ブギ」の主題歌に決まった。担当プロデューサーは当時TBSのヒットメーカー、飛ぶ鳥を落とす勢いの八木康夫さんだっただけに高木さんは八木さんとの交渉に相当苦労したと思う。八木さんはそうではなかったが、当時のドラマ・プロデューサーともなれば多くのプロダクションやレコード会社と癒着していたのでわれわれのような新興レーベルでは簡単に話を聞いてくれない。あまり詳しくは語れないが、ライバルを押しのけて主題歌にブッキングするためには、テレビ局の子会社である音楽出版社を通じて原盤権や出版権を譲渡したり、過剰な接待を繰り返したり、高価な貢物をプロデューサー宅に届けたり、正面から領収書を処理できないことも多く悩んだが、ヒット曲が企業にもたらす影響力を熟知していた東元社長のバックアップで何とか乗り切ることができた。

 

 

 

そうなんです、

教訓―13

エンタテインメントな人は、癒着するために半端ない努力をするのです。


 

「癒着」というと悪い意味に捉えられ、「人脈」というと良い響きに聞こえますが、そんなことはありません。人と人がつながり良好な人間関係をビジネスの世界で構築するのは簡単ではないからです。良好な人間関係程度では弱い、それこそ抜き差しならない人間関係ぐらいにならないと当時のエンタテインメント業界では大きな成果を出すことができなかったのです。たとえば、相手が酒好きな人であれば毎日でも付き合い、ゴルフ好きな人であれば毎週でも付き合い、麻雀好きな人であれば一晩に数万円負けることも覚悟して付き合わなければなりません。でも、それだけではダメです。さらに重要なのは自分の「切り札」を持つことです。この人と付き合えばギブ&テイクの関係が生まれると相手に思わせる「切り札」です。ここまでできて初めて先方もこちらの言い分を聞いてくれるようになるのです。これが「癒着」です。いま流行の異業種交流会で名刺を配ったぐらいのコミュニケーションではまったく役に立ちません。確かにテイチクには特定のプロダクションや特定のドラマ・プロデューサーに強いディレクターや宣伝マンがいましたが、彼らは間違いなく相手と癒着していました。癒着という濃密な人間関係からヒットのきっかけが生まれたのも事実ですが「悪い奴ほど出世する」も事実の音楽業界でした。


 

シングル「DEAR FRIENDS」は大ヒットこそしなかったもののPERSONZの知名度を一気に押し上げるには充分なヒットになり、その年(1989年)の126日に発売したBAIDISでの4枚目のアルバム「DREAMERS ONLY」は発売と同時にオリコン・アルバム・チャートの1位に輝いた。売上枚数は40万枚。スタート以来3年目でBAIDISは頂点を極めた。そして、何よりも嬉しかったのは、東元社長に任された自分たちの仕事が世の中に認められ、それがオリコン1位という形になって業界にインパクトを与えたことだ。1211日にオリコン本誌を見たときの感激、感動は今でも忘れられない。その後の仕事において、この瞬間を超える感動に出会うことは、残念ながらなかった。


 

2015626日、PERSONZはデビュー30年を記念して武道館でコンサートを行った。30年間も同じメンバーで活動を続けているなんて、何と素晴らしいバンドなのだろう。私は緊急のプレゼンが入り武道館に行けなかったが、会場でファンと一緒に「DEAR FRIENDS」を熱唱できなかったことが残念でたまらない。