ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ―10 | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。

■エンタテインメントな人たち-10



テイチクという会社は私が入社したときから南口重治さんという人が社長だった。この人はテイチクの創業者南口重太郎という人の息子なので、テイチクは南口家がオーナーを務める企業というわけだ。だからオーナーの権限は絶大だった。会議の時も南口社長の顔色をうかがいながら発言する人が多かったけれど、南口社長自身は意外と正論を直言する人を好んでいたような気がする。それでも1960年代の初め、業績が低迷した時期に松下電器に援助を求め、松下グループの一員になったので、テイチクに入社したにも関わらず松下グループの企業に入社したと声高に言いふらす姑息な人が関西出身者に多いと聞かされた。私が入社したときも経理担当の役員は井上さんという松下電器本社から派遣された人だったが、それは厳しかった。経費伝票の書き方も一から指導された。どちらかというといい加減な人が多いレコード会社に松下イズムを経理部門から導入したので幹部の中にはこの井上さんを融通が利かないと言って非難する人も多かったが、この井上さんの厳しい指導により、私が入社した1973年にテイチクは無借金経営の超優良企業に変身していたのだから、松下イズムというのはすごいものだ。




そんなオーナー会社の社長が1985年に突如交代した。これには誰もが驚いた。「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、そして、まさかだ」と言ったのは小泉純一郎元首相だが、その「まさか」が起きたのだ。南口さんの後任としてテイチクにやって来たのが東元晃さんというテイチクの兄弟会社であるビクター音楽産業の現役制作担当役員だったから尚更驚いた。東元さん(業界ではみな彼のことを親しみを込めてトーゲンさんと呼んでいた)といえば音楽業界で知らない人がいないというスーパー・ディレクターで、日本コロムビア時代に担当した「ちあきなおみ」の「喝采」で日本レコード大賞を受賞し、その後移ったビクター音楽産業でインビテーション・レーベルを大成功させ、サザン・オールスターズのデビューにも深く関わった有名人だ。そんな制作のプロフェッショナルがテイチクにやって来るのだ。それも単身で。


私が音楽業界で過ごした21年間で最も印象的かつエンタテインメントなこの東元さんから私は音楽ビジネスはもちろんのこと、人生についても多くのことを学んだ。先に書いた「俺の経営方針は朝令暮改だと思え!」や「説得でなく相手が納得するまで粘れ!」もこの東元さんから叩き込まれた。仕事では厳しかった東元さんもアフター・ファイブになると社長室を開放して、若い社員たちと酒を飲みながら談論風発。そのまま近くの居酒屋に移動することもよくあった。私のどこが東元さんに好かれたのかよく分からないが、飲み会が終了すると最後は必ずよみうりランドの自宅までタクシーか契約しているハイヤーで送るのが私の役目となり、時にはそのまま社長の自宅に泊まることさえあった。翌朝社長の家で朝食をすませると迎えの車に乗り、私は会社のはるか手前で降りて出社した。前の社長だった南口さんが神経質なオーナー社長だったので、仕事は厳しいが気さくな東元さんの人柄は多くの若い社員たちの心を短期間でつかんだ。さすがエンタテインメントな人は違う。





そうなんです、

教訓―12

エンタテインメントな人は、人の心をつかむのが上手いのです。



エンタテインメント業界で成功するには「人に好かれる」ということがとても重要だと書きました。その基本は、仕事には厳しいが、一歩仕事から離れたら大いに人間味を発揮し、上から目線でなく人に接するということです。東元さんがテイチクに来て、上司と部下という垣根を取り払うところまではいきませんでしたが、南口社長時代とは異なり、自由に意見が言える職場環境になったことは確かです。そして東元さんは社長なのにアフター・ファイブで酒を飲んだ時の面白さ、酔うと周囲の人間を「このタコ!」と呼び捨てる姿に何とも言えない愛嬌がありました。昼間はわれわれを厳しく指導しながら、夜になると分け隔てなく若い社員たちと飲む。今までのテイチクにはいないタイプの経営者に多くの社員が惹かれ、社員のモチベーションは一気に高まりました。なんだかんだ言ったって、みんな仕事が、人間が、好きなのです。そして、何よりもフラットなコミュニケーションの中で働くことが楽しいのです。東元さんが来たことによって「テイチクは間違いなく変わる」誰もがそう確信した。






そんな東元さんが最初にやった組織改革が社内に新しいロック・レーベルをつくることだった。どちらかというと演歌色の濃いテイチクに革新的なロック・レーベルをつくる。簡単ではないが成功すればテイチクのイメージが一気に変わり、社員の意識改革につながる。東元さんはそう考えたに違いない。そして関西に本社があり、社内で関西弁を話す関西出身者が出世すると言われていたテイチクで、このロック・レーベルを運営する3人(制作の真田佳明~後にEMIの取締役、宣伝の高木信一~後にビーインググループの中核会社アディングの社長、販促の私=森茂雄)を指名して課長に据えたのだ。(正確に言うと課長になった時期は微妙に違うと思う)恐らく社内で相当の反発があったと思うが、このおかげで私は1985年に34歳でこのロック・レーベルの販促課長に就任した。


東元さんに指名された東京採用の30代課長3人は、まずレーベル名を考えなければならない。これが大変難しかった。良い名前が浮かぶがこれをよくよく調べると殆どが商標登録されていて使えないのだ。悩みに悩んでいる時に、誰が言ったか忘れたが(多分真田さんだと思う)、米国ではレコード店で「推薦盤」のことを「BUY THIS」(これを買え)というけれど、これを使ったら?と何気なく言ったのだ。悩んでいた3人の頭の中で何かがはじけた。「BUY THIS」をそのまま使うことはできないが、発音記号にしたらどうだろう?と誰かが言った。ロック・レーベルBAIDISが誕生した瞬間だ。こうしてわれわれのロック・レーベル「BAIDIS」は1986621日にSIONのシングル「俺の声」とアルバム「SION」の同時発売で産声をあげた。











SIONが第一号アーティストだったというのはBAIDISにとって幸運だった。その後BAIDISに所属したいというアーティストの大半がSIONのいるレーベルに行きたいと言ってくれたので、SIONは紛れもなくBAIDISの象徴になっていた。今だから言えるがブルー・ハーツやスピッツだってそう言ってくれた。でも、いざ契約ということになると、そんなに簡単ではない。やはり契約金やプロモーション力も秤にかけられる。アイドル担当を3年近くやってある種の虚しさに陥っていた私はこのBAIDISレーベルの誕生で生き返った。もうテレビ露出などに頼らなくてよい。志を同じくする仲間と共にライブパフォーマンスに心を動かされるアーティストを探し出し、このBAIDISレーベルから世に出し、プロモーションしていこう。自分の進むべき道が決まったような気がした。幸い先にデビューしたSIONが彼の過激なビジュアルと岡本おさみさんの鮮烈な歌詞、そして心の奥底から絞り出すようにして歌う個性的なヴォーカルにより多くのロック・ファンから支持され、BAIDISレーベルはSIONのイメージと重なり短期間で多くのシンパを獲得した。SIONに同行したツアーでは宿泊したホテルで泥酔したSIONに殴られたり、馬乗りになって耳にピアスの穴をあけられそうになったこともあるが、それがSION独特の愛情表現だと知り、ますます彼が好きになっていった。



シングルにはなっていないが、私の大好きな曲はSIONが作詞・作曲した


「風向きが変わっちまいそうだ」だ。



この街じゃ

誰もかれもが

なにかを企んでいるように見える(中略)

まるで蜘蛛の巣のような電車の地図に

あっけにとられ

立ちすくんでいる俺は

奴らには見えないらしく

人の波にこずきまわされて

風向きが変わっちまいそうだ





山口県の豊北町という小さな田舎町から東京に出てきたSIONの心情がそのまま謳われているこの歌詞に、同じように地方の田舎町から都会に出てきて、とまどい、苦しみながら青春の証を追い求めている多くの若者がシンパシーを抱いた。

当時若者に熱狂的に支持されていた尾崎豊がシングル「卒業」を大ヒットさせ、アルバム「回帰線」がオリコン初登場1位になった頃である。

青山学院高等学部を中退した尾崎豊のファンとは明らかに異なる、都会の底辺で毎日の生活費を必死に稼ぎながら暮らしている地方出身のハングリーな若者がSIONを追い求めた。都会と地方の格差があった最後の時代かもしれない。そんな時代にSIONBAIDISの第一号アーティストになったのだ。スタッフの多くが彼の歌に、彼の世界にのめりこんでいった。



そんなSIONも今年(2016年)BAIDISからデビューして30年になった。



次はBAIDISレーベル史上最大のセールスを記録したPERSONZについて書いてみたい。