ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ―5 | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

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音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。

■エンタテインメントな人たち―5

 

 

神童だった(?)真田さんは早稲田大学入学後名門ニューオリンズ・ジャズ・クラブに入りトラムペットの名手となった。ちなみにこのクラブ出身者には音楽業界で働く人が多い。

 

 

高校卒業時に挫折した(?)松井くんは、業界定番の日大芸術学部入学後ジャズバンドに参加し、プロ顔負けのクラリネット奏者として名を馳せた。ちなみに彼の父親は映画音楽の作曲家としても著名なジャズ・ピアニスト松井八郎さんだから、やはり蛙の子は蛙だ。私はといえば、当時上智大学で最も部員数の多かった(100人を超えていた)ギター&マンドリン・オーケストラでコンサート・マスターを務めたぐらいだが、ギターも弾けば編曲も独学で勉強した。当時は今では考えられないほどマンドリンの人気が高かったので、マンドリン・オーケストラのコンサート・マスターともなれば100人を超える部員をまとめる他にステージで華麗なソロを披露しなければならない。ギターパートで入部しながら、2年でマンドリンに移った私は必死に練習した。やるからには上手くなり、コンサート・マスターを目指したかったので授業に出る時間などない。英文学より音楽を選択した私は、第二外国語であるフランス語の単位を落とし、補習を受けようやく卒業できた劣等生であるが、コンサート・マスターのとしての経験は社会に出てから大いに役立った。

 

 

 

このように「音楽」という絆で結ばれた3人が同じ職場で働くのだから、チームの結束は自ずと固くなった。朝昼晩、公私を問わず3人一緒に盛り上がっていたので、周囲からは「3バカトリオ」と呼ばれていたらしいが、チームの結束力の強さが「1+1=3」のエネルギーを生み、不可能と思われることも可能にしていった。「どんな難問にも必ず答えがある」と上から目線で上司に激を飛ばされたのもこの頃だ。

 

 

 

 

テイチクの洋楽部門は、私が入社した前年に長年契約していた大レーベル(今のMCA)が他社に移ってしまい、残りは弱小レーベルばかりで、一般的知名度のあるアーティストは、Scepterのディオンヌ・ワーウィックかMPSのオスカー・ピーターソンぐらいしかいない。それでも当時のディオンヌ・ワーウィックはバート・バカラックと組んで「サン・ホセへの道」や「小さな願い」とか、それなりのヒットを飛ばしていた。しかし「ないなら買ってくるか、自分で作るしかない」が当時の部門方針だったので、邦楽と違って簡単に作ることができないわれわれは積極的に海外へ買い付けに行かされた。

 

 

 

 

 

今でも開催されているが、毎年1月の下旬から2月の上旬にかけ(2015年からは6月開催)フランスのカンヌで開かれる世界最大規模の音楽産業見本市MIDEMに出向いていき、自分の目利きで、日本で売れそうな楽曲やレーベルを契約することができた。上司も部下も、先輩も後輩もない、全てが担当者の目利きによる実力勝負のMIDEM出張に若い時から行かせてもらったのだ。実際には海外の音楽出版社等にコネがないと簡単に通用する世界でないことを後に知るが、大学出たての若造を簡単に海外出張に行かせてくれたのだから、われわれは大レーベルがないことでの恩恵を相当受けたことになる。

 

 

 

 

 

MIDEM出張では私自身不思議な経験をした。それは1990年代初めのこと、われわれレコード会社のスタッフは音楽出版社協会が中心になって組んだツアーの一員として成田に集合していたのだが、場内アナウンスで米国を中心にした多国籍軍が後に「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる軍事行動をイラクに対して行ったということを知らされた。つまり、フランスまで飛行機は飛ばすけれど、途中何が起こるか予測できないので航空の安全が保障されないというアナウンスだ。アメリカ海軍から発射され

る巡航ミサイル、トマホークやB52での空爆がガンガン行われている周辺を飛行するわけだから、それは危険に違いない。で、日本からのツアーはあっさり中止になった。しかし、当時設立されたばかりでまだレコード協会に加盟していない某レコード会社の幹部だけは単身で搭乗した。日本からMIDEMに行くライバル企業がいないのだから、そのレコード会社の幹部は、当時流行っていた大量のユーロビート音源を買い付け、このときの音源を帰国後コンピレーション・アルバムにして発売し、大成功を収めた。ここから同社の神がかり的な成長が始まった。これはもう伝説としか言いようのない話だが、悔やんでも仕方ない。横断歩道、みんなで渡れば怖くない式に行かなかったわれわれに勇気がなかったのだから。おまけに私ときたら成田に集ったメンバーに誘われ、会社には戻らず、ドル札を握りしめたまま東北の温泉ツアーに同行してしまった。なんとも緊張感のない話だが、当時の音楽業界がいかにゆるい業界だったかがよくわかる。コンプライアンスなんて誰も気にしない良き時代の楽しいエピソードだ。

 

 


 

 

そんな中、時代は1970年代の後半に。日本で最初のディスコ・ブームがやってきたのだ。大きなレーベルに恵まれなかったわれわれでもMIDEMで契約した曲がひとつでも当たれば大儲けできる時代に突入し、一発勝負の刹那的なディスコ・ブームに火がついた。