ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだー3 | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

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音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。

■エンタテインメントな人たち-3



 

先に書いた通り私は1973年にテイチクレコードに就職した。マンドリンクラブの先輩の計らいで私は大学3年の頃からインター・ソングという外資系の音楽出版社でアルバイトをしていた。だから一般企業を受験することなど頭になく夏休みが過ぎてしまったのだが、それでも当時何となく憧れていたコピーライターという職種には興味があり、まだ間に合った電通とインターパブリック博報堂(今のマッキャンエリクソン)の社だけ受験することができた。電通はAの数が足りなく学内選考で落とされてしまったが、インターパブリック博報堂は最終面接まで進んだ。この最終面接には後にブリティッシュ・ロック評論家として名を成す立教大学の大貫憲章君と私を含め計4人が残った。私は後で述べるレコード会社の試験日とこの最終面接日が重なり、音楽業界への就職を優先させコピーライターになる道を諦めた。電通がクリエイターの試験なのに何故Aの数を基準にしたのか今でも分からないが、この年Aの多さで電通に入社した同期の石井クンが今や電通の社長なのだから(2016年5月現在)悔しいが、やはり「A」を数多く獲る人にはそれなりの力があるということだろう。しかし、私はコピーライター志望でしたからね。


 

 

そして希望する音楽業界といえば、サイモン&ガーファンクル、シカゴ、ジャニス・ジョプリン等々大好きな洋楽アーティストの多いCBSソニー(現在のSME)以外考えられなかった。1973年というのはCBSソニーが設立されて間もない頃で、レコード会社に就職したいと思う学生の大半がCBSソニーを受験したからものすごい競争率になっていた。私が受験したときは、確か300倍を超えていたように記憶しているが、あえなく2回目の面接で撃沈した。

 


 

バイト先の音楽出版社に就職することもできず途方に暮れていた私にバイト先の佐藤支配人が木上さんというテイチクレコードの洋楽部長を紹介してくれたのが縁で、同社の入社試験を受け、いろいろあったが無事合格した。いろいろあったと書いたのは、テイチクでは既に定期の入社試験は終わっており、カトリック系の上智大学英文科を卒業見込みだった私は、きっと英語に堪能なのだろうと勘違いされ、一人で洋楽部の追試を受けたのだ。この大きな勘違いが後々私を悩ませた。しかし19734月に入社し、2週間の人事研修を終えた後に人事部から告げられた配属先を聞いた時には腰が抜けた。


 

 

それは当然だと思っていた洋楽部ではなく、ましてや宣伝部でも営業部でもない・・・・・・高田馬場にある商品センターだったからだ。商品センター?私は頭の中が真っ白になった。商品センターでの仕事が具体的に浮かんでこなかったからだ。商品センターは会社によっては商品課と呼ばれ、新入社員が営業の第一線に出る前に特約店からの電話注文を受け、倉庫内にある棚から指定の商品をピックアップし、それを指定の箱に詰めて配送のトラックに乗せる。ただそれだけだ。クリエイティブな感性もコミュニケーション能力も必要ない。「レコード会社=タレントに囲まれた華やかな世界」を夢見ていた私は、それとは全くかけ離れた、完全なブルーカラー職、完全な肉体労働職に唖然とした。(ここでの経験が後に役立つとは当時の私には知る由もない)

 

 

 

渋々高田馬場に通い始めた私だが、驚いたのはこの商品センターに牢名主みたいな現場のおっさんがいて、何でもかんでもこのおっさんに聞かなければ物事が進まない。しかし、驚いたことにこのおっさんはセンター内にある商品の棚を完璧に暗記していて、全く無名の、数年に一度か二度しか注文が来ないような商品のありかが頭に入っていたのだ。今であればコンピューターなみの記憶力だ。右も左も分からない新入社員が倉庫内をウロウロしているだけでこのおっさんの雷が落ちたが、この記憶力だけはリスペクトしていた。非合理的な世界だが、パソコンはもちろん、電卓がようやく普及し始めた頃の話だ。彼の心証を悪くしたら仕事に支障が出ると、当時のセンター長までが気を使っていたのは仕方ない。


 


私がこの商品センター時代に学んだ最大の教訓は、レコードには返品があるという当たり前のことだった。スタジオで多くの時間をかけて制作し、宣伝マンが汗だくになってマスコミにプロモーションし、営業は年下の若い店員に頭を下げて商品を仕入れてもらう。そのレコードが大量に返ってくるということに驚いたのだ。返品されたレコードはその後カバーのビニール袋を新しいものに代えて再出荷されることもあるが、その多くは廃棄されてしまう。多くのレコード会社が新入社員を最初に商品課に配属するのは、彼らが後に制作や宣伝や営業に配属されたとき、1枚でも返品が少なくなるような仕事をしようと思わせるためだと聞いたことがあるが、当時の私は、ただただ商品番号とその商品が収納されている棚番号を覚えることと牢名主のおっさんに気を使うことで精一杯だった。それでも商品センターで半年間の業務を終え、多くの同期がセールスマンとして営業所に配属される中、私は希望していた洋楽部販売促進課に配属された。1973年10月のことである。
 

 

ここで少し当時の社会情勢について話をさせてもらいます。私が商品センターへの異動を告げられた1973年はレコード業界にとって忘れられない年になりました。それは第一次オイルショックがあったからです。1973106日に第四次中東戦争が勃発。これを受け1016日に、石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシア湾岸の6ケ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから一気に5.12ドルへ引き上げたのです。それに伴いアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、産出量を段階的に減らし、中でもイスラエル支援国家への輸出を停止すると発表したのです。

日本はイスラエルを支援したことはなかったのですが、同盟国であるアメリカがイスラエルを支援していたので、そのとばっちりを受ける形になりました。中東からの石油輸入に依存していた日本では物価が急上昇し、消費は一気に低迷したのです。トイレットペーパーや洗剤など原油価格に直接関係ないものまでが買い占められ、一種のパニック状態になったことでも話題になった年です。石油の輸入量が減るため、国内で石油から作られる製品は軒並み品薄になってしまいます。レコードの原材料である塩化ビニルがまさにそれです。後にも先にもレコードを作る原材料がなくてレコードが作れなくなったのはこの1973年だけだと思います。当然レコード各社も翌年の採用を控えたので、音楽業界に就職を希望する学生たちにも大きな影響を与えました。


 


 


 

 

配属先は希望どおり洋楽部門だったが、初出勤の日に木上洋楽部長からいきなり大きな洗礼を受けた。朝一で出社するや否や木上部長に呼ばれ、日本語で書かれた長い手紙の下書きのようなものを渡され「きみが森くんか、悪いけどこれを至急英語に訳し、この宛先にテレックスしておいてくれ」と言われたのだ。朝早く意気込んで出社してきたので会社には部長と私しかいないやばい!」私が一番恐れていたことが初日から起きてしまった。だって私が卒業した上智大学はカトリック系なので英語を話す神父さんが大勢いたし、全学的に英語力の強化が特徴の大学だった上に私は英文科を卒業している。英語に堪能だと思われても仕方ない。部長は試したのだ、私の英語力を。上智大学の英文科を卒業したからといって、全員英語がペラペラなわけではない。これは大きな誤解だ。おまけに私ときたら在学中授業に出ている時間より、当時所属していたマンドリン・クラブの部室でギターやマンドリンを弾いたり、バイトしたり、はたまた映画館に入り浸っている時間のほうが長かったので、英文科卒と言っても、その実力のほどは怪しいものだ。それは自分自身が一番よく分かっている。


 

 


 

 

話を元に戻そう。

 



 


 

動揺した私が席に戻って部長から渡された手紙のようなものをよく読むと、それはレコードの基になるマスターテープの督促状のようだった。このくらいならば英語に訳せると安心したものの、次に言われた「テレックス」の意味が分からない。「ティー・レックス」ならマーク・ボランだと即答できるのに。真剣に悩んだ。そうこうしているうちに先輩社員たちが出社してきたので、その中でも特に優しそうに見えた女性社員のところに歩み寄り、「ティー・レックス」ならぬ「テレックス」について尋ねたところ、彼女が指差した先にあったのは1台のタイプライターとそれにつながるダイヤル式の電話、それにおびただしい数の穴があいた紙テープだった。私にとっては生まれて初めて見る機械だ。目を丸くし、呆然と「テレックス」を見ていると、その女性社員が私のそばに寄ってきて、いきなりこう尋ねた。「あなた上智の出身だそうね。で、何学部?わたし行きたかったんだ~、上智の英文科に!」血の気が引いた私はどもりながら「ほ、ほ、法学部です!」と答えた。この日を境に私が隠れキリシタンになったのは言うまでもない。



 

 

そうなんです、

教訓ー3

エンタテインメントな人は、とっさの機転でその場を乗り切る術を身に着けなければならないのです。


 



 

仕事にはある程度駆け引きが必要だし、成果を出すためには時に「嘘も方便」でよいと思います。またその場を機敏に乗り越える能力というのもエンタテインメント業界では重要な資質だと言われていました。何しろ、私が働いていた音楽業界では、実際は白であっても大手芸能プロのワンマン社長が会議の席上で黒だと言えば黒になるような世界だったから、瞬時に自分の考えを修正することも必要でした。こんな記憶もあります。3文字のアルファベットが社名の某芸能プロダクションの社長はいつも杖を携えて会議に出席していました。足が不自由なわけでもないし、私が不思議に思っていると、ある先輩が「あの杖には日本刀が仕込まれている」と耳打ちしてくれたのです。会議の席に日本刀を携えた人が同席していることに驚いたのなんのって。「たとえ理不尽であってもあの社長がびんぼうゆすりを始めたら要注意だ。その場の空気を阿吽の呼吸でよむ者がいないと社長がイライラして杖に手をかけるからその時はそれ以上自分の意見を主張しないように。」という驚きの話です。また当時の社長にこう言われたこともあります。「俺の経営方針は朝令暮改だと思え。朝言ったことが夕方には変わるぐらいのスピードで仕事をしなければ、この業界で生きていくことはできない!」・・・・・・・・・・・堅気の人には分かりにくいかもしれませんが、今でもこれは名言だと思っています。きっと社長は過去の名声や実績にいつまでもしがみつくな!と言いたかったのでしょう