ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだー2 | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

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音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。

■エンタテインメントな人たちー2

 

英文科に入学したものの、大好きな音楽活動を続けたく、多少クラシック・ギターが弾けた私は、「ギターアンサンブル」か「マンドリン・クラブ」のどちらかに入ろうと決めていたが、大学のメインストリートで打楽器を叩きながらラテン音楽を演奏しているマンドリン・クラブ「ソフィアマンドリーノ」のほうが「ギターアンサンブル」より格段に楽しそうだったので迷わず「ソフィアマンドリーノに入部した。

当時マンドリン演奏団体の全盛期で私が入部したした時の「ソフィアマンドリーノ」は創部僅か9年なのに部員数が130名近い大学で最大のサークルだった。ここで知り合った同期生や先輩、後輩たちが生涯の友人、否友人どころではない、まるで家族のような付き合いになるとはこの時は知る由もない。

 

 

そんな私が4年になったとき、秋の音楽祭に向けた恒例の夏合宿で事件は起きた。それは23日の夏合宿最終日、全ての練習が終わった後の打ち上げのときだった。同期の仲間から次々と就職先決定の報告があり、そのたびに同期の皆で乾杯!一気飲みをした。就職先は、日本IBM、日本航空、日本交通公社、高千穂バロース・・・・など当時としては一流企業ばかり。「うそだろう!」昨日まで音楽のことばかり語り合っていた仲間がいつの間にか大手企業にちゃっかり就職を決めていたのだ。私は焦った。8月だというのに就職試験そのものを受けていなかったからだ。というのも私は大学3年の頃から音楽系の出版会社でアルバイトをしており、その音楽知識は年上の社員からも一目置かれていたので、きっと卒業したらこのままその会社に就職できる、いや就職できないはずはないと思い込んでいたからだ。慌てた私は、合宿が終わった翌日、バイト先の社長のところにすっ飛んで行き、「社長、ボ、ボ、ボクは来年の4月になったらこの会社に社員として採用されるんですよね?」何とも間抜けな質問である。考え方そのものがエンタテインメント的だと思う。社長は当然のごとく「君はあくまでもアルバイトだから・・・・・うちにそんな余裕がないことぐらいキミだって知っているだろう?」何の感情もない社長のひと言。思わずその場に倒れこんでしまったワタシ。いくら音楽活動に没頭していたからといってもあまりに無知なワタシ。

 

 

 

そうなんです、

 

 

教訓ー2

エンタテインメントな人は、自分が好きなことに没頭すると、周囲の皆も自分と同じだと思い込んでしまうのです

 

 


 

好きなことに没頭してしまうと周りの状況が見えなくなる。私の周囲にはそういう思い込みの強い人が大勢いました。普通の企業ならいくら思い込みが強くても周囲の状況が見えなくなるような人は出世コースから外れてしまいます。でも、その強い思い込みの中から次のヒットが生まれることが多々あるのもエンタテインメント業界なのです。私がレコード会社で特に大切だと思ったのは、制作、宣伝、営業の幹部が集まって行う編成会議の席上で発言する担当ディレクターのプレゼンです。マーケティング戦略も重要ですが、最初の関門は担当ディレクターがこの曲、このアーティストに賭ける思いを社の幹部を前にどれだけ強くアピールできるか、感情が入ったプレゼンテーションのことで。売上目標数字や全社一丸なんてキャッチフレーズは二の次です。大体「全社一丸!」なんてコピーがついた商品は成功したためしがないもちろん企画を通すことがゴールではないし、そこから先、制作段階での苦労もあるでしょう。何より実際に売れるかどうかの不安もあると思います。それら全てをひっくるめて楽しい、愉快と感じられることにディレクターの醍醐味があるのだと思います。私もレコード会社在籍時にこの編成会議で初回オーダーが500枚に満たないシングル(当時直契約の店だけでも全国に1万店近いレコード店があった時代ですから、500枚というのは営業から市場に出す価値がないと宣告されたようなものです)を担当ディレクターのプレゼンを信じて市場に出したらじわじわと売れ始め、最終的に10万枚を超えるヒットになったというような例を何度か経験しました。「好き」というマーケティングの難しさですが、宣伝や営業のスタッフが「このディレクターと心中する覚悟で頑張ろう!」と思う気持ちからヒット曲が生まれたと、今でも思っています。かつて、「強い夢は叶う」と書かれた色紙をさだまさしさんにもらったことがありますが、同じ思いでもこだわりのある強い思いでなければ夢は叶わないということです、念のため。

 

マンドリンクラブとは別に、一緒にPPMバンドを組んでいたポールさんやマリーさんがいつの間にか大手企業へ就職を内定させていたことも私をさらに傷つけた

な~んだ、みんな音楽一筋みたいなことを言っていながら陰ではしっかり就職活動をしていたんだ!

そんな当たり前のことに今頃気づくワタシの無知はどうしようもない。


 

その後、青ざめて倒れこんだ私を見て責任を感じたバイト先の社長、インターソングの日本法人支配人である佐藤さんの計らいで、私はテイチクレコードに何とか潜り込むことができたのだが、そのことは次の章で詳しく語りたい。私と同年に大学に入学し、卒業した多くの若者は「俺はだな~、本当は東大に行きたかったんだよ。だけどな、俺が受験した昭和44年というのは学生が安田講堂を占拠して東大の入試がなかった唯一の年なんだ。だから仕方なく〇〇大学に行ったんだよ。」何度も聞かされた話だが、私が私立大学を受験したのは、単に苦手な数学が受験科目になかったからでしかない。