刹那的な時代? | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

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音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。

最近の世の中ってあきらめムードが蔓延していないでしょうか?



「一生懸懸命やったって、どうせ・・・・・・・だから」


とか


「経営が上手くいかないのは、世の中の景気が悪いせいだ」


とか

「今の日本じゃ何をやったって・・・・・・・・・・」



上手くいかないことを他者のせいにする。


目標や成果等何かを諦めた人は、自分のことを優先させる生き方に転じることが多い。


私の身の回りにもそういう人は少なからずいる。


会社のためという生き方を早々と諦め、自分のためという生き方を優先させる。

でも、これっておかしい。


会社のために努力し、会社が成長してこそ、そこで働く人の生活が保証される。


例えば政治家が国民のためという生き方を諦め、自分のためにという生き方に転じたらどうだろうか?


だからではないけれど、日本の国力の劣化と共に「自分さえよければ」的な生きたが日本中に蔓延してきたように思えるのです。


それでもまあ、オリンピック期間中はまだ良かった。


「夢をあきらめない」的な高揚感が少しはあった。


それがオリンピックが終わった途端、以前のあきらめムード蔓延の世の中に戻ってしまったような気がします。


消費税の増税法案に賛成した自民党が消費税の増税反対を盛り込んだ首相の問責決議案に賛成する矛盾。


こんな単純な矛盾を国民が分からないわけはないのに、政治家は国民を愚弄しているとしか思えない。


一方の民主党だって問責決議案が出た途端に国会審議が中断するため、解散総選挙を遅らせることができる。


野党だって与党だってみんな、自分の選挙のことばかり、つまり自分にとって都合の良いことばかりを考えている。


こんな政治ショーを連日見せられていれば、国民だってしらけてしまいますよね。


だから、みんな、自分中心の刹那的な生き方に向かってしまうのかもしれない。


ところで刹那的って言葉を簡単に使ってしまったが、何か違和感があったのできちんと調べてみました。


「刹那」とは、本来サンスクリット語「ksama」の音写で、仏教用語では時間の最小単位を意味する。


つまり「刹那」という極めて短い時間を大切に生きというのが本来の意味らしい。


しかし、普段我々が使っている「刹那」って「その場主義」というか「今、この瞬間が楽しければよい」という意味ですよね。


あまり良い意味では使われていません。


それが今の日本人の生き方を象徴しているとしたら、これは淋しい。


「刹那」という言葉が本来持っている「今という時間を大切に生きる」という意味に転換していかなくては、日本はダメになってしまう。


そのためには、努力した人が報われる世界をつくる、努力した人が正当に評価される会社にする・・・・・・・・・・そうならなければいけないはずだ。


でも、これは簡単なようで意外と難しい。


努力した人でも報われないことがある。


これは歴史が証明しているからだ。


明智光秀だって一生懸命努力して織田信長に仕えたのに、報われなかった。


でも、一生懸命努力した人が報われないとしたらどうだろう、人の気持ちはどんどん落ち込んでいってしまうに違いない。


信長に反旗を翻した光秀の気持ちも分かるような気がする。


ある本に書いてあったが、ビジネスで成功する人の条件のひとつが


「どんな試練にあっても、良い経験をしたと素直に受け入れることができる」


だそうです。


確かにそうだが、普通の人間はそんなに強くないと思う。


辛いとき、苦しいときに、「何とか頑張ろう!」という気持ちになれるのは、そんな自分を支えてくれる人がいるからだと思う。


NHKドラマ「梅ちゃん先生」で事業に失敗した下村家の長男「竹夫」が立ち直れたのは、彼を支えてくれる家族や部下や恋人がいたからだ。


だから、



熱い仲間をつくり



熱い仲間と酒を飲み



熱い仲間と熱く語り



熱い仲間と一緒に笑い



熱い仲間を愛する



仕事でもプライベートでも、私はそんな生き方が好きです。