岡林信康「レクイエム~我が心の美空ひばり」 | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

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音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。

青葉台にある美空ひばり邸にて


「縁」とは不思議なものです。


今まで全く接点のなかった加藤和也さんと昨年知り合いました。


加藤和也さんとは「ひばりプロ」の社長で、美空ひばりさんの息子さんのことです。


知り合うきっかけになったのは、岡林信康さんの最新アルバム「レクイエム~我が心の美空ひばり」のレコーディングスタジオでした。


長年の友人である今村さん(元文化放送の制作部長で、現JAMの代表)から昨年の11月、「面白いレコーディングをやっているから覗きに来ない?」という誘いのの電話をもらったことがきっかけでした。


そのスタジオで会ったのが加藤和也さんご夫妻です。


美空ひばりの息子・・・・・・・ひばりプロの社長・・・・・・・・芸能界真っ只中・・・・・・・・・どんな人だろうと最初は緊張しましたが、名刺交換した時の和也さんの笑顔と腰の低さで緊張は一気に和らぎました。


今まで、さだまさしさんをはじめ、多くの歌手が美空ひばりさんのカバー曲を発売してきましたが、今回のレコーディングには特別な思い入れがあると力強く話してくれました。


それもそのはずです。


今から35年前・・・・・・今年が美空ひばりさん没後21年ですから、ひばりさんが亡くなる13年前にひばりさんが岡林さんに託した一通の手紙にしたためられた歌詞「麦畑のひばり」に岡林さんが曲をつけ、今回のアルバムに収録したからです。


ひばりさんは暴力団山口組との深い関係を問われ、それまで17年連続で出場してきた1973年末のNHK紅白歌合戦に出場できませんでした。


それ以来二度と紅白に復帰することはありませんでした。


歌謡界の女王と言われてきたひばりさんにとって屈辱的な出来事だったと思いますが、ひばりさんは幼い頃から興行の世界で世話になってきた田岡組長への恩義を忘れず、この屈辱を甘んじて受けたのです。


岡林さんに託した「麦畑のひばり」はその2年後に書かれたものです。


大空を自由に飛ぶ雲雀に自らの運命を託したのでしょうが、自由に飛ぶ雲雀の眼前に迫る山の頂の先には死までが見えるという内容です。


さすがに当時の岡林さんにはひばりさんの心中を察するだけの人生経験がなく、曲をつけることができなかったそうです。


それが60歳を超えた今、当時のひばりさんの心境を理解できるようになり曲をつけたことが今回のアルバムに繋がったのです。


この手紙を岡林さんに託した後のひばりさんは茨の道を歩むことになります。


80年代に入ると、それまで二人三脚で芸能界を生き抜いてきた最愛の母、喜美枝さんの死、そして二人の実弟、哲也さん、香山武彦さんの死、さらに前述の田岡組長を相次いで失うという悲劇に見舞われたのです。


深酒に溺れ、徐々に体調を崩していったのはこれらのことが原因なのでしょう。


親しくなった和也さんは、そんな母親のことを隠すことなく我々に語ってくれました。


本当に心の優しい、素晴らしい青年(?)です。


NHKの紅白歌合戦に落選してから亡くなるまでの十数年間の美空ひばりこそが「人間・美空ひばり」そのものだとも語ってくれました。


「人間・美空ひばり」・・・・・・・その言葉が強く心にひっかかりました。


何かの形で「人間・美空ひばり」を後世に残すことができたら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・強く思っています。


1月19日昼間、青葉台にある美空ひばり邸で岡林信康さんの最新アルバムの発表会が開かれました。


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春になれば満開の桜が見事だろうなあと思われる美空ひばり邸の中庭に、優しさに溢れた岡林さんの歌声が響きわたる、何とも言えないライブでした。


また、こういう出会いを仕事として受けることができたことに感謝した一日でもありました。


これも今村さんとの交流から生まれた、たった一つの出会いがきっかけです。


あの時、レコーディングスタジオに行かなかったら・・・・・・・・・・・


私のような年齢になると一回、一回の出会いや飲み会を大切にしたいと思う気持ちが年々強くなり、つい飲みすぎてしまうことの多い今日この頃です。


一期一会・・・・・・・・・・本当にそうなんだと思います。


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