ギリシャに眠る日本美術~マノスコレクションより
発表があったときから観たいなあ、と思っていた展覧会のチケットを部下のKクンからもらいました。
以前このブログでも紹介しましたが、Kクンの父君は日本でも有数の浮世絵の研究者で、今回の写楽肉筆画を発見した学術調査団の団長でもありました。
東京両国にある江戸東京博物館。国技館の隣にあります。
威風堂々とした建造物です。
ここには日本の浮世絵を筆頭に江戸時代を中心にした絵画や陶器など6,000点を超える美術品が所蔵されています。
この美術品の中に写楽が描いたとされる肉筆画があったのです。
なぜ、日本から遠く離れたギリシャに・・・・・・・・
コルフ島がどういうところか分りませんが、遠く離れた異国のギリシャと日本を結ぶ絆からこのコレクションは生まれたのです。
その絆とは一人の外交官グレゴリオ・マノスという人です。
彼は外交官でしたが、日本を訪れたことは一度もありません。
しかし、日本の工芸・美術品に魅了され、私費で1万点を超える作品を購入したのです。
殆どがパリやアムステルダムなどヨーロッパの主要都市で購入したそうですから、当時(19世紀末から20世紀初頭)日本の貴重な美術品が大量にヨーロッパに流出していたということになります。(もったいない!)
大量の美術品の中に謎の浮世絵師「東洲斎写楽」の落款がある肉筆画ががあったのです。
世紀の大発見と言われました。
扇子に貼られていたものを、はがして保存していたのでしょう。右下に間違いなく「写楽」の署名がありました。
この肉筆画についての詳細は、大作「江戸の浮世絵」(藝術書院)に詳しく書かれているので、そのまま引用させてもらいます。
著者は学習院大学の小林忠教授です。
いわゆる「まくり」(表装から剥がされた書画をいう)の状態の写楽画は、表からはもちろん裏からもよく観察することができた。料紙はうっすらと黄色味の光沢を帯び、細かなすき目をもった竹紙で、折り目の跡がはっきりと残っている。もとは12本の骨がついた扇子に仕立てられた後、一時は画帖などに貼られていたこともあったようだ。裏面にはあちこちに雲母が付着しているからである。現状のサイズとしては、縦が17.4センチ、上弦の横の幅が46.6センチ、下弦は19.4センチを数えた。裏面からも表の絵柄がはっきりと見えるほどに、紙の質は極めて薄い。マノスによってフランス語で記されたリストには、「紙本扇面 雲母地に二人の役者を描く。署名:写楽。300」と記されている。
300というのは300フランのことで当時としては比較的高価で購入したことが分ります。
この写楽肉筆画の他にも、今回の会場には多くの浮世絵他120点が展示されています。
前期、中期、後期に分類されているので、描画の素晴らしさの他に江戸時代の印刷技術の向上の跡がよく分ります。
浮世絵というのは「絵師」が基の作品を描き、「彫師」が原画に忠実に、極めて繊細な技術で版木に彫る。そして仕上げが「刷師」。これが微妙な色合いを多色刷りで行うのだから、極めて芸術性の高い共同作業ということになります。
絵師の名前は後世に残りますが、彫師や刷師の名前は誰も知りません・・・・・・・・・・・・・・
そして、浮世絵に描かれた江戸の世界は、どんな書物を読むよりも、当時世界最大の100万都市だった江戸庶民の文化や風情を忠実に表現しています。
浮世絵の美人画を見ると、まるでファション誌をめくるような楽しさがあります。
それで気づいたことは色です。
当時の女性が着ていた着物の色に原色といえるものは殆どありません。
地味で、微妙な色使いばかりです。
ここに、細やかで控えめな日本人の気質を感じました。
左の絵は私が大好きな喜多川歌麿の「深く忍恋」というタイトルの有名な美人画です。
美女の心の内までも映し出したような線と色使い。
この絵を見るたびに、深いため息が出てしまいます。
当時江戸に滞在した多くの外国人が書き記したエッセーや手紙が数多く残っていますが、当時の江戸の市井の人々を見て「日本には貧乏人はいるが、貧困を感じている人はいない。四季の移ろいを大切にし、皆が人生を楽しんでいるように見える」と書き残している人が多いそうです。
当時の欧米は産業革命により、貧富の差が拡大した時期でした。
欧米の合理的な文明に一切さらされていなかった当時の日本は、彼ら欧米人にとって極めて新鮮に写ったのではないでしょうか。
浮世絵を見る楽しさもそこにあります。
私が浮世絵切手を集めたのもそんな気持ちが心のどこかにあったのかもしれません。
駅構内に三重の海と長谷川の大きな肖像画が飾ってあるような下町・両国にある江戸東京博物館で見る展覧会だからこそ、感動が大きいのかもしれません。
平日の夕方でしたが、中年女性と外国人が大勢訪れていました。
楽しい展覧会でした!