唐十郎の状況劇場に傾いた中村勘三郎の夢
9月16日(日)に放送されたテレビ番組「おかえり」(テレビ朝日)の同録を本日ようやく見ることができました。
タイトルは「中村勘三郎の傾く夢」です。
傾くと書いて「かたぶく」と読ませる。
まさに「かたぶく」という言葉は「歌舞伎」の原点と言われている表現で、その歌舞伎が出雲の国の阿国の芸から発祥したものだということは皆さんよくご存じですよね。
第十八代中村勘三郎についてもよくテレビに出ている人なので、敢えて詳しく紹介はしませんが、歌舞伎界のプリンスとして若い時から活躍し、若者の街・渋谷で、自由劇場の演出家だった串田和美と組んで「コクーン歌舞伎」を成功させたり、平成中村座という仮設劇場を立ち上げて江戸時代の原点と言われた庶民が楽しめる歌舞伎を再現させたり・・・・・と実に精力的な活動を続けています。
2004年10月には初のニューヨーク公演を、オペラハウス近くの公園に建てた仮設劇場で上演し、大成功を収めました。
今年の7月に2度目のNY公演を、前回に引き続き串田和美演出による「法界坊」で、さらなる成功を収めました。
だから、中村勘三郎は、古くからある歌舞伎界の枠に囚われない、自由な発想を持った日本の古典芸能の重要な継承者ということになります。
番組は、このあたりの話題から始まりました。
この番組が新鮮だったのは・・・・・
ナゼ勘三郎が「コクーン歌舞伎」に挑戦したり、仮設の平成中村座を作ったのか?
という勘三郎のエネルギーのルーツを探ったことにあります。
それが1977年、都立青山公園内の仮設テント(通称・紅テント)で上演されていた唐十郎・作演出による「蛇姫様~我が心の奈蛇」を勘三郎が見て大きな衝撃を受けたからだといいます。
中村勘三郎22歳の時でした。
唐十郎率いる状況劇場が通称紅テントと呼ばれた食虫植物のような仮設テント小屋で上演していた卑猥で、過激な演出、そして何より若い役者が発する権力に媚びない台詞に中村勘三郎は江戸時代の歌舞伎の原点を見たと言います。
江戸時代の歌舞伎もいわゆる「恐いもの見たさ」の面白さや、「時の権力にあかんべえ!」をする庶民の気持ちを代弁するものであったはずだ。なのに現在の歌舞伎公演は銀座の歌舞伎座でお膝に手を置いて行儀よく見ている(勘三郎曰く)ものばかりになってしまった。
何とかこの現状を打破し、新しい世代や海外の人々に日本が誇る古典芸能の真髄を知らせたい!
その一念が中村勘三郎のエネルギーの原点であり、それが1977年の唐十郎の芝居との出会いにあったという番組構成です。
唐十郎は歌舞伎の原点と言われる「傾く」(かたぶく)について次のように語ります。
「かたぶく」っていうのは、演じるほうも見るほうも傾くんだよね。つまり真っ直ぐに演じない、真っ直ぐに見ない。どこか斜めに物事を見る。真っ直ぐっていうのは時の権力であったり、道徳であったりするわけだから、そこから外れることが「かたぶく」なんだよ。
1960年代後半から70年代にかけては「天井桟敷の寺山修司」、「早稲田小劇場の鈴木忠志」、「黒テントの佐藤信」と前述の「状況劇場の唐十郎」等が次から次へと時の権力や既成の道徳に反旗を翻す、いわゆるアングラ演劇を立て続けに発表していた時代で、実に精力的なエネルギーが市井に溢れていました。
この時代に、当時20代の中村勘三郎がいたからこそ、その後のイノベーター的な勘三郎の活躍があるのでしょう。
いつの時代でも革新的なビジネスを起こしたイノベーターはもてはやされます。
しかし、そのイノベーターにも必ずと言っていいほど、後日自分を走らせた大きな「感動」や「驚き」との出会いがあったはずです。
そんなことをこの番組を見ながら考えていました。
エディット・ピアフが1961年、死の直前にパリのオランンピア劇場で歌った「水に流して」のライブ録音を後日聴いた時の衝撃が、間違いなく自分を音楽に走らせたひとつの大きな出会いだったと思っています。