躯体は魂の住処、命は魂の依代。
そして、心は魂の拠り所です。
おはようございます、京の都で修行中
平成小野篁 会いにいける霊媒師 惠御子です。

水瓶座満月の日がやってきました。
二年間我が主として、日々懐中仏として
持ち歩き、ともに都を目指した菅原道真公が
我が主を退く日がやってきました。


北鎌倉の古美術商の店先に飾られていた道真公、
そち、連れて参れよ、とわたしを呼んだ懐中仏。
江戸と言われた創作時期は、実は曖昧かもしれない
ことが、上洛してわかった小さな仏様。
ともに都を目指しましょう、一緒に帰りましょう。
その約束通り、錦天満宮のある商店街にお席を
いただけることになり、わたしは道真さんと
都へ帰ってきました。
生家の学舎の近くにあったサロンでご縁を頂いた
KOZAさんのオーナーのお店に席を頂けたのも
道真さんのお取り計らいかもしれません。

上洛間際に、わたしはとある流れで小野篁にご縁を持ち
春に黄泉がえりの井戸のある場所に入りました。
そこで、平成小野篁になる決意をし、こわごわ篁を
名乗りはじめます。
理由は一つ、どうしても命を繋ぎたい人ができたから。
平成小野篁になれば、閻魔大王にも、死神にも
交渉する権利ができると思ったからです。
途方も無い思いつきであり、途方も無い挑戦。
それでも、やらない選択はありませんでした。
その後、あれよあれよと西陣に住まいが決まり
千本えんま堂さんとご縁ができ、それでも道真さんと
生きるわたしは、奈良に吉祥天をお迎えに行き、
西陣入居日に、西陣がルーツの陶芸家さんから
毘沙門天を都の守護仏として迎え入れました。


道真さんと歩いていけるのは、もうここまでだよ。
あるできごとをきっかけに、新京極を離れる
決意をしたわけですが。
それは、実はそういうことやったと理解した日。
仕事終わりにこちらを観てきました。


わたしは15年前に代替療法家としてデビューしました。
アメリカホスピスチームの水準を持つヒーラーに
なれと言われて育成されました。
そのため、開きはじめた霊能力に蓋をすることを
長きにわたり師から求められて来たのです。
311があり、その水準を満たせてなどおらぬこと、
修行のように厳しかった7年に、聞いていたような
意味や効果はないことを悟ります。
そして震災後、あるできごとを機に『心を届ける』と
いうことを、辞めてしまうようになるのです。







地元神奈川にある東海大学救命チームが開催した
傷病手当のセミナーにいき、Dr.ヘリを視察した
ことがありました。
フライトDr.との質疑で『現場で一番不安なことは
なんですか?』と尋ね、『情報の少なさと
不確かさ』と教わりました。
有事の現場では情報と判断力が命綱であると悟り
あの日そのどちらもを持たなかったわたしが
被災するのは当たり前だと気がつきました。

えみちゃんは何故、すぐに想いを口にするの?
つい最近、仲間に問われました。
次はないかもしれないから、それが答えだと
気づくまでには、だいぶ時間がかかりました。

想いだけが、その人が生きた証です。
躯体を焼かれ、命を離れて御霊だけになる、
でもそのあとも、想いだけは消えることなく
空に持ち帰れる。
わたしは7年の通訳生活の中で、幾多の故人と
守護からそれを教わっていたに過ぎない。

命を離れてゆくことが、死ぬこと。
でも、死んだらもう想いを言葉にはできない。
それが、どれほど歯がゆく切ないことかを
いまのわたしはよく知っています。

想いを届けながら生きる、どれだけ蹴り飛ばされて
踏まれることがあろうとも。
悩み苦しみ、泣いて笑って生きることが
生き抜いた、という唯一の証だから。

それが、職業霊媒の在り方だと思うから。

小野篁は、参議という仕事として宮中と
閻魔帳に仕えた稀有な役人。
つまり、踏襲するには『職業』にするしか
ないのです。

神のお手元である、霊媒業を。

これが正解かはわかりません。
ただ、いまは正解なのだと信じてやるしかない。
すべて、やって確かめるのがわたしだから。
だからもう、道真さんを主にはできない。

今日からは、まる子と友蔵のような二人でいよう。
ずっと、ミッチーとともに在りたいから。


ね、ミッチーじーちゃん。

スピリチュアル予防学始まります。

新月の種まきも同時受付。