私らは映画作りに励んでは、野山を駆けずり回っていた。
当初予定作品は、私の好みと妄想を働かせすぎ、担任の先生から書き直しを命じられた。
エロ過ぎたのだ。
作品は私の作文に任せられていた。
後日仲間と話したが、あの時の担任は勇気があった。
受験生を、夏中遊ばせてくれた。
たぶん、教頭にはかなり厳しい言葉をかけられていた。
男女が同じ公園に行くだけで停学ものだったのを、校則の裏をかいて、私らは公立図書館を出会いや話し合いの場として利用していた。
そんな風紀破りには、今や世界的な研究でアメリカの大学教授になったやつもいた。
数年前まではstapの話とかで連絡したりしていたが、フェイスブックが乗っ取られてからは交信はない。
私でさえ涙が出そうな下宿で、教養時代は駒場に通っていた。
偉い。
共通の女友達に言わせれば、けして許さないひどいことを相手にした私だが、彼のからだは細いが、心は大きかった。
そこに、漢文の先生がいた。
会津の堅物らしいからだと教えだった。
誰が交渉したかは覚えていない。
ドタバタ映画に、古代遺物検証者として出演を頼んだ。
予想に反して、快く受けてくれた。
その先生が広島で学んでいたことは知っていた。
が、所謂被爆者であることは、退職後のインタビュー記事で知った。
しかし、授業でそれを話したことは無い。
かつては、小学校の先生はじめ、いろんな障がいを持った方々、銃弾の傷跡に、冬には歩き辛い方々。
いろんな方々がいた。
彼らは、それを口にしたり、ましてや国のせいにしたりはしなかった。
少なくとも、私は聞いていない。