【記憶】本当は優しかった鬼軍曹 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

しま爺の平成夜話+野草生活日記

世間を少しばかり斜めから見てしまうしま爺さんの短編小説や随筆集などなど
★写真をクリックすると、解像度アップした画像になります。

野郎の話も書いていこう。
最初に長期滞在となったのは、私の知っている限りでは階級差別が激しかったあの国だが、その前にシンガポールに4ヶ月ほど短期滞在をしたことがある。


初めての海外だったが、私には外国を感じさせない街だった。

私の指導役に、後にシンガポールの財閥のお嬢様と妖しい関係になる、吉永小百合の祖父がトイレに寄った店でビールを飲んでいたかも知れない祖父の孫である。

当時1枚200円くらいのTシャツを着ていた私と違い、万単位のTシャツを着ており、田舎者の私に食事の仕方などを教えてくれた方だ。
シンガポールに着いた夜、彼は早速歓迎宿に連れていってくれた。

学習熱心な私は、すぐにマナーを覚え、2ヶ月後くらい後には、彼以上に勤勉になっており、私が客の案内役となった。
あの階級差別国でさらに長期の滞在を、常務が専務に要請するのを赤ちゃん理由で拒否した私は、希望を聞き入れてもらい、シンガポールに再度赴任する。

そんな厳しい生活の中、彼が鬼軍曹と呼ぶ方がいらした。

いや、彼に限らず現地の人たちは、部屋に呼ばれるだけで固まった。


軍曹は、社長に次ぐ地位の方で、ゴーちゃんとならびシンガポール工場の有名人だった。


彼には何度か呼び出され、当時の私の頭では、2年はかかることを1ヶ月でレポートするよう命じられた。
その時私は、絶対無理だと数値を挙げて反論した。 だいたいレポートなどは必要ないことに思えた。

が、鬼軍曹の強い命令に泣きべそをかきそうな顔で部屋に戻った。

上司もよくぶつかる方だったが、あまりに青い顔をした私には、かける言葉もなかったようだ。



そのような訳で、会社の命運がかかったプロジェクトは、私のところだけ桁違いに遅れた。



国内が200万とか500万の生産完了とかが流れるなか、私の担当シンガポールではテスト生産さえできないのだった。

あんなバカな調査などしなければ、こっちだって100万や1000万は作れるのに。
そう何度か思った。

私は、国内からの嘲笑と罵声に耐えるのが嫌になっていった。



が、結果的には鬼軍曹の読み通りとなった。


軍曹は、あまりにうまい話に疑問がわいていて、敢えて生産を止めていたのである。かなり国内から叱られていたことは、ずっと後になって知った。

黙って見ていたシンガポール社長も偉い。





やがて契約は白紙になった。
なんだかんだで百億を超える赤字となり、アメリカ支店と北米での営業権が消えた。

国内工場や支店は、大部分リストラ対象となり、多くの人たちが消えていった。

プロジェクトを進めていた役員の何人かは首になり、少し後には社長と鬼軍曹が役員となっていた。



大量生産まで行かなかったシンガポールは、ほとんど被害が出なかった。


結果的に鬼軍曹は、実に頭がよく優しい方だったのだ。

後になって、そう思った。
軍曹は、フランスに行く際には家族を交えて食事に招いてくれた。


はやお亡くなりになった方だが、ずっと経って前の会社でお会いした時は、どこぞの会社での顧問のようなバイトをしており、鬼どころかわびさびを愛する好好爺になっていた。


あそこまで悪者になれた方を、私は知らない。


すごい人だったのだと思う。