野郎の話も書いていこう。
最初に長期滞在となったのは、私の知っている限りでは階級差別が激しかったあの国だが、その前にシンガポールに4ヶ月ほど短期滞在をしたことがある。
初めての海外だったが、私には外国を感じさせない街だった。
私の指導役に、後にシンガポールの財閥のお嬢様と妖しい関係になる、吉永小百合の祖父がトイレに寄った店でビールを飲んでいたかも知れない祖父の孫である。
当時1枚200円くらいのTシャツを着ていた私と違い、万単位のTシャツを着ており、田舎者の私に食事の仕方などを教えてくれた方だ。
シンガポールに着いた夜、彼は早速歓迎宿に連れていってくれた。
学習熱心な私は、すぐにマナーを覚え、2ヶ月後くらい後には、彼以上に勤勉になっており、私が客の案内役となった。
あの階級差別国でさらに長期の滞在を、常務が専務に要請するのを赤ちゃん理由で拒否した私は、希望を聞き入れてもらい、シンガポールに再度赴任する。
そんな厳しい生活の中、彼が鬼軍曹と呼ぶ方がいらした。
いや、彼に限らず現地の人たちは、部屋に呼ばれるだけで固まった。
軍曹は、社長に次ぐ地位の方で、ゴーちゃんとならびシンガポール工場の有名人だった。
彼には何度か呼び出され、当時の私の頭では、2年はかかることを1ヶ月でレポートするよう命じられた。
その時私は、絶対無理だと数値を挙げて反論した。 だいたいレポートなどは必要ないことに思えた。
が、鬼軍曹の強い命令に泣きべそをかきそうな顔で部屋に戻った。
上司もよくぶつかる方だったが、あまりに青い顔をした私には、かける言葉もなかったようだ。
そのような訳で、会社の命運がかかったプロジェクトは、私のところだけ桁違いに遅れた。
国内が200万とか500万の生産完了とかが流れるなか、私の担当シンガポールではテスト生産さえできないのだった。
あんなバカな調査などしなければ、こっちだって100万や1000万は作れるのに。
そう何度か思った。
私は、国内からの嘲笑と罵声に耐えるのが嫌になっていった。
が、結果的には鬼軍曹の読み通りとなった。
軍曹は、あまりにうまい話に疑問がわいていて、敢えて生産を止めていたのである。かなり国内から叱られていたことは、ずっと後になって知った。
黙って見ていたシンガポール社長も偉い。
やがて契約は白紙になった。
なんだかんだで百億を超える赤字となり、アメリカ支店と北米での営業権が消えた。
国内工場や支店は、大部分リストラ対象となり、多くの人たちが消えていった。
プロジェクトを進めていた役員の何人かは首になり、少し後には社長と鬼軍曹が役員となっていた。
大量生産まで行かなかったシンガポールは、ほとんど被害が出なかった。
結果的に鬼軍曹は、実に頭がよく優しい方だったのだ。
後になって、そう思った。
軍曹は、フランスに行く際には家族を交えて食事に招いてくれた。
はやお亡くなりになった方だが、ずっと経って前の会社でお会いした時は、どこぞの会社での顧問のようなバイトをしており、鬼どころかわびさびを愛する好好爺になっていた。
あそこまで悪者になれた方を、私は知らない。
すごい人だったのだと思う。