【1978夏】建築法と気象庁震度レベルを変えた地震 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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その年の冬、実は大きな地震があった。


その日は家にいず、友人の家で麻雀でもしていたのだろう。

が、家に帰ってびっくりした。

箪笥が倒れて、せんべい布団の上に横になっていた。

もし家で寝ていたら、私は箪笥の下敷きになっていたろう。


そこで、箪笥の抑えをつけていた。


その半年後、あれが起こった。


その時は学校の内庭に出ていた。

その1時間くらい前にも、少し揺れた。

が、それは私は気づかなかった。



で、あれが起こった。


目の前で、前の建物の空調機が落ちてきた。

幸い人はいなかったので、それで怪我をした人はいなかった。

直後に、足元のコンクリ道部分にヒビが入っていくのが見えた。


大きいぞと思っていたが、こういう場合不思議と焦らない。

数メートル離れたところにいた女の子が震え、私を見ているのが分かった。

私は、少しうなづいた。


彼女は、飛び込むように私の胸の中に入ってきた。


部屋の友人ではあるが、恋仲でも、片思いでもなかった相手だし、相手には彼がいた。

が、なぜか私は、これは守ってやらねばという気になっていた。

だから自然としがみついてきた彼女を受け入れた。



目の前では、数羽のウサギがのんびりと草を食べている。



10秒間もなかったろうが、私には結構長い時間でもあった。

このまま地震が続いてもいいかな、などと不謹慎な考えさえしていた。


揺れが収まったころ、別の部屋の友人が目に入ってきた。

私には見えるが、しがみついている彼女には見えないはずなのに、彼女はさっと私から離れ、何もなかったようにウサギを集めにかかった。


やはり、女には背中に目があるのだ。


私は確信した。




後で知ったが、あの地震の中先輩はフラコレ(実験器具)が心配で、4F会議室から1Fまで階段を駆け下りてきたらしい。

揺れの中で変に鼻を伸ばしてしまった私などとは、さすがにまったく違うなと思った。




今度は箪笥が倒れるどころか、ごちゃごちゃだなと思っていた部屋は、前の地震で抑えを作ったせいもあり無事だった。


が、大家さんの玄関のドアが壊れたり、近所のスーパーはほとんど物が落ちていた。

酒屋を見たときは勿体にと思った。

半日後でも、床が濡れてうまそうな香りがだよっていた。

この時の揺れが、気象庁では震度5と発表されたが、被害が大きく、震度見直しとなった。また塀が倒れての犠牲者が多く、建築法などの見直しのきっかけにもなった。水道やガス復旧が都市地震のネックとして、ライフラインという言葉も生まれた。 普段の生活に戻ったのは、それから1か月後くらいからだ。理系学生の中には、実験のやり直し等で留年となったものも多かった。





熊本方面の地震が、また増えてきた。

午前中だけで、有感地震20回は超えそうだ。




★参考(ウィキペディア)

宮城県沖地震 (1978年)(みやぎけんおきじしん (1978ねん))は、1978年昭和 53年)6月12日 の17時14分25秒(JST )に発生したマグニチュード 7.4(Mw 7.5[2] )の地震 。最大震度仙台市 などで観測した震度5(強震)であり、東京でも震度4(中震)を記録した。平均37.1年の間隔で[3] 複数回起きた宮城県沖地震 の一つである。