およそ、その男が怒った姿は観たことがなかった。
が、喧嘩したら怖そうでもあった、
なにしろその男の親は、日本有数の武者でもあり、地元高校の喧嘩指導親分として100年史にも載っていた。
だから、警察は無論、地元のやくざやさんにも一目おかれてはいた。
が、生活はひどかった、
名前はあるが、暮しは地元でもかなり貧しい方だった。
その息子は、地元の星と仰がれる存在になった。
戦前のことだ。
昭和天皇が地方巡回した際に、天皇をお迎えする式典で、子どもたちの絵が展示された。
そこに、男の絵があった。
昭和天皇は、その絵の前でしばらく立ち止まり、大きな月の下で遊ぶ夕暮れを描いたその男の絵に、しばし見入った。
同行していた先生がいたく驚き、村中の話題となった。
戦前の天覧である。
今とは、重さが違ったろう。
男は絵画だけではなく、学校の勉強もかなり優秀だった。
特進を2回繰り返し、教師の道に進む。同期の人はほとんどすべて2歳年上以上だ。
が、そこでも男はリーダー的な存在ではあった。
実はもっとやりたいことがあったが、教師になれば毎日の飯は食えた。
その男が、教師になってすぐ学校と喧嘩をした。
それは生徒の旅行に関してだった。
その日は、朝から大荒れの天気だった。
学校では、旅行の中止を決めていた。
が、男は大反対した。
雨天だろうと嵐だろうと、決行すべきだというのである。
これは、地元民から大いに感謝された。
今では考えられないが、地元の親は切り詰めて子どもの弁当を作って持たせていた。
いや、普段は持っていけない生徒もかなりいた。
が、旅行の時ぐらいはと無理して弁当を作った家庭が多いのだ。
それを考えて、男は旅行を強行したのだった。
旅行を取りやめたら、親の思いが無駄になるだけでなく、次回の旅行の飯も作れない可能性がある。
どうも、そうした理由だったようだ。
この話は、男が亡くなってから知った。
この男を息子は頼りなく、何故怒らないのだろうと何度も反発していた。
が、その息子は今はその男を大きかったのだろうと尊敬している。
男は、叙勲などいらないよと断ってもいたらしい。
これも、死後の葬儀委員長の言葉で知った。
その男が叙勲にならないのは、不良息子のせいかなと思っていた子どもはほっとした。
その男とは、私の親父である。
全然怒らない変な人、という印象が長らくあった。
誰かに騙されて母が怒っていても馬耳東風だったし、私の小さなころは一部からずいぶんいじめられているのも見ていた。
数回苦虫をかみつぶしたような顔は観たが、他にあたることも酒に逃げることもしなかった。
今思うと、強い人だった。
だから、怒ることもなかったのだろう。
今は亡き父。
心から尊敬できる存在になった。