これは生前の、珍しい父と母の写真である。
我が家には子供のころから朝鮮人の方が時々遊びに来ていた。
私が灰神楽をかぶりそうになって、自分の腕にやけどをしながらも私を救ってくれたのは、よく来ていた朝鮮人の方だったようだ。
恥ずかしながら、よちよち歩きだった私にはその記憶がない。
が、その夫妻や娘さんにはよくお世話になっていたことを思い出す。
それとは関係ないが、親戚の家ではよく朝鮮人の方を招いていた。
そこで勧められて、夫婦とも戦後朝鮮式正装で写真を撮ったのが、上の写真である。
この写真だけが独り歩きして、しま爺は朝鮮人の子どもだとなる。
まあ、地元の人には笑い話だが、事情を知らない人には、本当らしい話となるだろう。
今回の記事は、大先輩のブログ題名のコピーである。
父の死を契機に、生まれてからいままで夢世界のおとぎ話と思ていたことが、少しづつ事実に近いことだとわかったことがある。
先祖のほとんどを語ることは、私の能力では1年では足りないだろう。
そこで、つい最近の、つまり明治以降の先祖について、ざっとひも解いてみる。
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かなり明確にわかるのは、また夢物語ではないと推定できるのは、曾々祖父夫妻あたりからだ。
私が生を受けた時には、この世にはいなかったからだ。
この曾々祖父夫妻がすごい方だったらしい。
子どもたちはみな、それなりの人物になった。
この写真は、曾々祖父の子と孫である曾祖父と祖父ならびに、中央は曾祖父の弟である、後の我が家を再興し、朝鮮でもある程度は知られていた方だ。
この方のことは、祖母が夢物語に何度か話してたのを覚えている。
また、この方は京都では相当な方だったらしく、京都市長と庭で団らんする写真も残っている。
こうした戦前の写真が残っている、しかも信じられぬほど鮮明な写真があることは、実に驚きだ。
かつ、食うや食わずの時代に、何十回分の食費に相当する写真を撮れたことも、この大伯父のおかげだろう。
この大伯父は、田舎の家々を大改築し、いまはすたれてしまったが、本家筋の家をかなりの豪邸にした。
襟首で分かるように、この下には複数の勲章がぶら下げられている。
明治時代のこの功績は、最近知ったばかりだが、いまでもインターネットで知ることができる。
私の周りの朝鮮人の方が多かったこと、田舎では相当変わり者だった、この大伯父のお手伝いさんだった老婆(毎月の念仏には必ず来ていた方)のことも、少しづつ分かりかけてきている。
ずいぶん遅いが。
この曾祖父、大伯父兄弟には、誇張すると日本の歴史などの関わった方もいた。
しかし、私の中ではこの大伯父以上の大物がいた。
少なくとも、私が高1までは存命だった方だ。
昔の紳士録を見ると、没年不詳とあり、昭和40年代半ばに亡くなったらしい。
その娘さんである銀座の野良猫仲間(比喩ではなく、本当の野良猫)には伝説となった百歳大おばあちゃんも、つい最近亡くなった。
その親父である、京都の大伯父以上に私の中で大きく光を放つ方は、なぜか地元ではほとんど語られない。
変なうわさもある。
おそらくそれに関係するのだろうが、北関東の寒村からデッチに出た坊主が、1代で銀座の顔になったのだから、悪い話も出てくるだろう。
ちょっとだけ言い訳させてもらうと、どんなダイヤモンドやルビーが近くいても、素人さんに手を出してはいけないという自分流戒律も、このあたりに関係してはいる。
結果的に言い訳になるが。
その銀座のおじさんの戒名を見ると、中ほどに『捨身』なる文字が入っている。
先日見た時は、笑ってしまった。
戒名にはふさわしくないが、的を射ている。
私が苦手の、前の大僧正が決めたものだろう。
ちなみに、2枚目の刀を持った写真右側。
祖父の、若いころのものだ。
免許皆伝2段だったという。
親戚に6段だか7段の八十猛者爺がいるが、戦前の2段は今の2段とは比較にならず、自分の段位など問題外。ましてや免許皆伝となったなら、雲の上のものだったと言っていた。
私には戦前の免許皆伝がどれほどのものかは、実感できない。
が、田舎では、警察や893やさんも触れなかったほど怖い存在でもあったようだ。
まあ、そんな最近の話が出た。
★付録
家に帰ったから親父の写真整理予定だったが、先に書いたように倒れるように寝てしまった。
1分程度だが、ちらと見た中に、こんなものがあった。
妄想スキの公安や左ねじあたりには、興味深い面子かも。
ネトウヨ爺のしま爺、決闘だ。銀座4丁目に来いとか言われても、私が逃げた本当の理由が推察できるだろう。
4丁目あたりには、しま爺の上の名前が付いた野良猫ではない、野良猫様もいらっしゃる。
来いといった方が、野良猫軍団に引っかかれてしまうだろうことが見えるからだ。