追記【消えゆく日本の風習・芳賀南部真岡の風俗】ぼうじんこ | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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うちの田舎では、半世紀前までは実に日本的な、また子どもや老人を大切にする行事が残っていた。

そのひとつが、中秋に行われる『ぼうじんこ』だ。



ぼうじんこに関しては、インターネットを探してもほとんど載っていない。


田舎でも忘れかけられようとしている風俗で、今では保存会のようなものまであるらしい。




p>このぼうじんこ。


おそらく、ほとんどの方が知らないでしょうから、簡単に説明します。



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ぼうじんこと言うのは、中秋の名月、つまり9月か10月の満月の日に、村の子どもたちが部落ごとに(注;関西で使う場合の部落とは意味が異なります。まさに部族の村の意味で、類縁者村落に近い意味であり、関西などのような、あるいは一部左巻き人間の考えのような、差別的意味合いは全くない)家々を回る風俗です。



これは中秋の晩に限られ、普段は年に1回も入ったことのない屋敷にも子供たちが入って、ぼうじんこをします。


ぼうじんこと言うのは、藁を野球のバットくらいの大きさに編んで作った棒です。


その棒を屋敷の庭に打ち付け、こんなことを言います。



(インターネット検索すると、最近はずいぶんファショなブルなものもあるようです。


 昔は、男性だけだった気がしたが、最近は女性も参加できるらしい)



ぼうじんこ


かっかたこ


おーむぎあーたれ


こーむぎあーたれ


さんかくばったそばあたれ



★歌詞は、村ごとに異なったりする






こうして家の庭を何度か叩きますと、家の主が現れ挨拶・礼とともに、いくばくかの小遣いを子供たちに与えます。


インターネットを見ると、最近はお金ではなくお菓子などになったところもあるようです。



はやい話が、日本版ハロウィンです。




さて、このぼうじんこに関して、推理を書いていきます。


この風習自体がなくなりつつあり、ほとんど日本の文化から消えていきそうなので、結構これは意味があることだと自負しています。






p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



まずは、言葉から考えましょう。



p>ぼう・じんこ


   ぼうじんこの棒とは、この子供祭に使う藁の棒も意味でしょう。


 じんことは、地神講または地神公、あるいは地鎮講(公)のことでしょう。


   棒ではたいて、地の神をたたえる、または鎮まるよう祈る。


   これと似た風習は、ポリネシアなどにもあった気がします。


   また、ここでいう棒とは男性性器の暗喩でもあり、のちの呪文とともに、豊作や子孫繁栄を祝います。


   一部では、藁鉄砲と書いてぼうじんことする説を書く人もいます。



p>


かっかたこ


   ぼうじんこを地面に打ち付けるときの、音の擬音化表現です。






おーむぎあーたれ


  大麦当たれ、つまり大麦が豊作であるようにとの祈願です。







こーむぎあーたれ


   小麦当たれ。


   大麦同様、豊作祈願です。






さんかくばったそばあp>

   三角畑蕎麦当たれのことでしょう。


   麦が植えられないような隅の畑に植えた蕎麦も豊作に、と言うことです。




 





>この歌には、米が出てきません。


それが秋の祭りだからなのか、まだ稲作が普及する前からの古い祭りだからなのかは分かりません。






p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




さて次に、この風習の意味する古い日本の田舎の風俗について考えます。





p>村という所は、かなり因習が残っていました。


とはいえ、一部海外に現存するような、恐ろしいほどの人種差別や階級差別、日本では想像ができないような職業差別、名前差別を明瞭に感じるようなことは有りませんでした。




そんな中では、このぼうじんこは唯一、地図や言葉にない境界を感じる祭りでした。



子どもたちが回る家は、毎年固定しており、すぐ近くの家でも行かなかったり、かなり離れている屋敷でもその日には行ったりします。




p>昔はこれを、お小遣いをもらえる縄張りと思っていました。




が、今考えると、何らかの姻戚に関係があるのではないか。


そんな気もしています。


(ただし最近は、引っ越してきた家族もすぐ入れるらしく、意味合いが異なってきている)






年に1度の血の確認。


ひょっとしたら、そんな意味があったのかもしれません。


繰り返しますが、今は無関係です。


今は、新しい引っ越し家族を迎え入れることにも一役かっているようだ。


女性参加も、その一環だろう。






同時に、これには収穫の喜びを子供にも分け与える意味があったのでしょうし、老人しかいなくなったあばら家に、年1度の子どもの声が沸き返る日でもあたのです。


普段は怖そうに見える古い屋敷のおばあちゃんが、案外気さくでお小遣いを沢山くれたりします。



すると供たちは歓喜の声をあげ、もう一度おまけでぼうじんこをしたりします。




ぼうじんこが終わると、中学生くらいの親分がお小遣いの分配をしました。


これが、秋まつりの駄菓子になったりしたわけです。


(最近のある記事では、子ども5人で4万近いとか)





私が中学生になる頃には、この風習もほとんんなくなってしまった気がします。


(おそらく年齢制限があった)





ですから、ぼうじんこの途中で眠くなりお兄ちゃんたちの背にまたがって帰ってきた記憶は有りますが、ぼうじんこの親分になった記憶はありません。





ある記事を見て、そんなことを思い出し、また推測しました。













最初に嘘書いちゃいました。




私の専門分野ではなく、専門分野にしたかった、が正しい表現です。