【記憶】東芝絡みの思い出などなど | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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社会人になって1年くらい。


その1年間だけで、私は本社を入れて計4つの転勤をしていた。


中には、私自身辞令を受ける前に友人から教えてもらった場合もある。




そんな1年目が終わるころ、私は東芝・府中に研修に行かされた。


大きい会社だった。


府中だけで、私のいた会社の海外を入れた全社員を上回っていただろう。



が、驚いたのはそんなことではなかった。



朝の武蔵野線の混雑だ。



ずいぶん緩和された今でさえ、朝の武蔵野線は日本屈指の混雑だろう。


入社早々は東京にも住んでいたから、多少の電車の混雑は知っていたつもりだった。


が、当時の武蔵野線は、千代田線のラッシュアワーの比ではなかった。





現在でさえ、武蔵野線はよく緊急停車する。

混雑に、気分を悪くする乗客が出るからだ。



40年近く前は、泣きたいぐらいだった。


1週間くらいの研修だったので、田舎者の私は、あたらしく転勤した栃木の田舎から、大きめのボストンバックをもって武蔵野線に乗り込んだのであった。






泣いた。


まず、電車に乗れないのだ。


で、2台くらいやり過ごしてから乗ったのはいいが、今度は降りられない。



そんなこんなで、研修初日から遅刻すると言う”大物???”ぶりを発揮した。



そこでの研修は、私には全くの分野外ではあったが、まずますの成績で無事終了できた。



その先生は、さすが大企業の研修のプロだけあって、新人にも分かりやすい教育をしてくれていたからだ。




その東芝さんの名前を、ここ2、3日よく耳にする。






チャレンジかあ。


耳にはいい言葉ですなあ。








そういや、それから少したって私は海外専門の鉄砲玉になったが、そこでチャレンジに似た言葉を聞いたことがある。



それは、初めての海外出張先でのことだった。


実は非常に優しく細かい気づかいをされる方なのだが、周りからは鬼軍曹とも言われ、数百人の現地人からも社長以上に怖がられた人がいた。


当時は自分で確認もせずに噂を信じてしまう方だったから、私もこの方は怖かった。




その軍曹が、出張したばかりの私を呼び出した。

現地人のリーダーなどは、こうした場合はまずトイレに行って、十分出すものを出してから行く。


で、その軍曹がチャレンジ事項を口にした。


若かった私は、計算上不可能であることを即答した。



後に分かったが、これは軍曹も十分知っていることだった。

だからこれは、可不可の問題を聞いたのではなく、私の答え方を聞きたかったのだろう。



今なら、あと少しソフトな言い方ができたかもしれない。

また、単にできないと言うだけではなく、別のアイデアも提案できただろう。



が、当時は計算上2年は必要なものを1か月でと言われたので、馬鹿正直に不可能だと答えたのだった。




その時は、結構赤い目で部屋に戻って来たのだろうと思う。

現地の当時の上司から、ずいぶんなだめられた気がする。




まあ、若かった。







東芝さんかあ。



私に直接関係するのはこの研修と、東芝さんに少なからず関係するあたりのことで、当時会社ではトップの実力者であった専務と国際電話で喧嘩したことぐらいだろうか。


もちろん私は、巨象に噛みつく1匹の兵隊アリでしかなかったろうが。



しかし、いい会社ではあった。


そんな兵隊アリは、普通なら蹴飛ばされる。


が、その専務は個人的に飲み屋に誘ってくれたりした。



知り合いから、ひどくうらやましがられたことを覚えている。

同時に、同期だけでなく会社では最も転勤も、海外出張も多い方となった。







昔の上司とは、ただ単に怒ったり、威厳を見せつけたり、利益を見たりするだけではなかった。



意見の違う相手こそ重視する、心の大きさがあった。


また、兵隊アリの噛みつきにも相手をできる余裕があった。








いまは、どうか知らない。







でも、もともとわがままな私だ。



それほど優遇され、ほとんどの役員とも平気で口がきけるようになったのに、わがままから自分で辞めてしまっている。

これは、鉄砲玉の性かも知れない。



専務には、飲み屋で2回くらい引き留められ、辞めてからもお呼ばれもした。




まあ、馬鹿な私であった。

そんないいところを辞めるとは。








その馬鹿さは、今も変わらない。