今日はエリプリル・プールだそうな。そう、春一番に泳ぐ日である。
そこで、嘘について考えてみた。
私も、もちろん嘘は何度もついている。
過去には、言い訳はできるとしても、保身のために我田引水的などうしようもない嘘をついたこともある。 が、それがいかに汚ないことかを身を持って経験してもいる。
同時に、嘘をつき続けることが、ひどく体力のいることも、多少は分かっているつもりだ。
しかしながら、相当な年齢になるまで、嘘に罪悪感を感じない人たちがいることは知らなかった。
それはある意味幸せなことでもあったが、ひどく不幸なことでもあったろう。
私の感覚では、どうしても理解できない嘘を平気でつき、それを指摘すると信じられぬ行動に出たり、怒りわめきちらしたり、あるいはその嘘にさらに嘘の上塗りをする人などは、確かに存在する。
かつ、それに罪悪感どころか、被害者意識を持つ場合があったりする。
そのような場合の多くは、私は精神的な欠陥や生活経験などからくる必然性を感じてしまう。だから、ある見方をすれば、その人には罪はないのだとも言えるのかも知れない。しかしながら、そうした嘘などで被害を受けたならば、相手が悪いのではないのだという、いわゆる人権派弁護士のような考えにはなれない。
例えば、自分の親や子どもなどがそうした人たちの被害にあったなら、極端な例でいうなら、なんら罪もないのに殺されてしまったなら、そう思えるだろうか。
コンクリート事件にしろ川崎や尼崎、滋賀、山口、池田などの事件を思うたび、そう思う。
だいたい、一部報道機関は情報公開を叫びながら、こうした報道では、平気で嘘を流したり隠したりしている。
情報公開だの人権だのが、聞いて呆れる。
A新聞は、特定国人絡みの場合には、国籍や氏名さえ隠したりしているではないか。
一方、日本人の場合には容赦なく犯罪者を公にさらす。
どこが公正中立な報道ですかいな。
元プロレス中継アナウンサーも雑誌などのインタビューに対しては、報道など嘘っぱちで本心など言えませんよみたいことを言っているのではないですかね。
でも、いまだにかなりの人たちが、その嘘報道を信じていたりするのが実情かと思う。
民放は眉唾で見る人たちでさえ、公共放送はまだまだ高い信頼度があるようにも思われる。
テレビ時代はそろそろ終焉を迎えるだろうが、私を含めた一部の人たちに、多大な影響を与えた。また、与えている。
テレビニュースの、特に政治経済柄みのニュースは、かなりの眉唾ものがあることは、少しずつ明らかになってきてはいる。
かつ、マスコミのかなりの部分が日本ではないところに牛耳られているであろうことも、インターネット情報や感覚で浸透しつつある。
さらに、原発事故報道以降は、科学的なものとさえ思えるものでさえ、インチキがふんだんにあることが見えはじめてきた。
問題は、インターネット世代が、今度はインターネットの中にあるインチキ情報に惑わされることだろう。
実際に、このアメブロの中でも、根拠のない伝聞情報や勝手な思いこみを事実として記事にしているものをよく目にする。
さらに、そうした記事に疑問を呈するコメントに対しては、説明するのではなく罵倒したり批判をするななどといったものがあったりする。
疑問に対しては答えるべきだと思うが、罵倒したりしかできないのは、自分で嘘をついていることを自覚していて、そこに触れて欲しくないからだろうか。
このあたりは私には理解できないところだが、誤りを指摘したら剣の舞を踊って見せられた過去を連想してしまう。
嘘は場合によっては必要だ。 例えば、明日をも知れない人に、明日まではもちませんて言われましたなどとは言わないで嘘話をするだろう。
そうした嘘なら理解はできるのだ。
しかしながら、知らない者を騙したり、弱者の弱みにつけこんだ嘘、または力を利用して嘘をつかせたり広めること、あるいは誤りが分かってもそれを認めない嘘には吐き気さえ覚えてしまう。
このブログは、学生時代の仲間や私の昔をよく知る会社仲間も見ている。
だから、自分だけかばう大きな嘘はつけないように、自分を縛っているつもりだ。
とはいえ、多少イタズラ嘘コメントはかなり書いてます。
それがジョークと理解してくれる相手だけかもしれませんがね。
と、ぶつぶつ言ってみた。