それは、あの地震の前だったやうな気がする。
あの地震と言っても、311のそれではない。
もう半世紀近く前の、伊達を襲ったおおなゐのことだ。
その後で建築法が改正されたり、震度分類が変わったり、ライフラインと言う言葉が発明されていった、あの梅雨前の地震である。
これで、理系では多くの留年が出た。
それまでの実験が消えてしまったからである。
そのころの私は、ダメ人間の代表のやうな日々を送っていた。
とにかく勉強が嫌だった。
ただし、実験は好きだった。
実験室の隣の席には、真面目なK太がいた。
いまやある業界では世界的にも注目を集めている、あのK太である。
彼は単に真面目と言うだけでなく、豪胆でもあり、また大人でもあった。
K太とは同い年である。
が、私がまだこの世で息をしていられるのは、少なからず彼の大人のアドバイスがあったからだろう。
ある夕方のことだった。
私たちは、ほぼ毎日行っている、卒論には直接関係のない実験に入った。
K太がどっかからもらってきたブツの、官能試験である。
実験対象は、すうぱあゑりと言った。
今でもそうだが、当時の学生風情には贅沢すぎる実験対象である。
1本で、当時の大学授業料半年分くらいした気がする。
もっとも当時の授業料は、半年分とはいえちょっときついアルバイトなら1日か2日分くらいで稼げる金額ではあったが。
すうぱあゑりの麗しい曲線は、当時は名前さえ知らなかった神湯イクゾーというブランデーにも似た、あるいは豊満な女性の体形にも似た独特のラインをしていた。
100mlか50mlビーカーに、それを注ぎ込む。
官能試験であるから、ビーカーを使うのである。
とにかく夕方とはいえ教授が様子を見に来ることがある。
だから、誤解を招いてはいけない。
また、先生方に余計な心配をさせてはいけない。
そうした、優しい気遣いをしての、卒論には直接関係はないが、将来人生には役立つと確信できる立派な実験を毎日のように行っていたのである。
ビーカーを使うのは、万が一の場合、立派な実験の一環であることを理解してもらう必要もあった。
いや、実のところ、当時の先生方はおおらかな方が多く、直接は卒論に関係がなくとも人生に役立つ実験には寛容であった。
一口をそっと舌に絡ませた。
うん!
なんだこれは。
思わずK太と顔を見合わせ、自然と笑みが漏れた。
「うまい」
K太は舌が肥えていたから、滅多なものではうまいと言わない。
が、それは違った。
すうぱあゑりは高級とはいえ、K太のおかげもあってたまには口にしていた。
が、それは全く別物だった。
なんでも、樽により稀にとんでもないやつができるらしい。
運よく、それにあたったようだっだ。
その味は、私の人生では最もうまかったウヰスキーである。
いまなお、それ以上のものを飲んだことが無い。
ある番組を見て、そんなことを思い出した。
K太。
もしこれを見ていたら、あらためて言います。
私がこの世で、まだこうやってブツブツやっていられるのも、大人の貴方のアドバイスのおかげがかなりあるかも知れないな。
ありがとさん。
でも、その後3年くらいは、結構なんというか、なんでしたよ(笑)。
かつての、島ちゃんより