【船がらみの思い出】体験者しかわからないであろう、毎日の静かな恐怖+α | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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これは過去記事の推敲版です。




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その当時、黄浦江には近くに橋がかかっていなかった。

川を渡る手段は船しかない。


ただの船ならまだいい。

外国人である私は、私用ではない限り公司(日本でいえば国営企業)が用意してくれた車に乗っていた。

途中では、特別な理由がない限り外に出ることはできない。


さて、問題の黄浦江を渡る場合だが、車はフェリーに乗って向こう岸へと行く。

ただし、その間も私は車から出てはいけない。


問題は、そのフェリーである。

フェリーとは言ったが、実は筏(いかだ)なのだ。

しかも、フェンスなどない。

車がいつ川に中に落ちても不思議ではないものだった。


川幅は、所によって500mくらいある。

かつ、当時の川の水は真黒であった。


夏はそれでもまだいい。

恐怖は真冬だ。

筏表面には氷がへばりついている。

波に揺れる車内で、ここに落ちたら助かる可能性は少ないなと思いまんじりともできない。


中国は週休2日などという洒落たことはしていなかったから、委託先の工場には週に5日から6日は通う。

往復入れて、週に10回以上この筏乗りをしなければならない。


委託先の工場では、特別に私用洗面器飯を用意してくれている。

ここの洗面器飯を作ってくれていたおばちゃんはすごく優しく好きだったが、最初に洗面器飯を見た時はかなり驚いた。

おそらくきれい好きの現在の日本人の若者では、まったく口に持っていけないだろう。

夜は和平で彼らの日給数日分くらいに相当する値段の飯を食べてはいたが、この昼飯は人によっては拷問に近かっただろう。

というか、会社もそのあたりは分かっていて、大丈夫そうな人間しかそうした場所には出張や駐在はさせなかった。





日本人で、あの筏体験をした人は少ないのではなかろうか。



毎日スリラー館体験をしていたようなものだ。



けして心臓が止まるような恐怖ではない。

キングコブラが足元に来た時の恐怖とは比較にならない。

しかしながら、じんわりとくる恐怖である。

また、毎日味あわなければならないものであった。



私の尊敬する先輩で上海を熟知していた方も、これは苦手だったようである。










そんなことがあった。




★蛇足


日本の絵葉書を持って行ったことがある。

写真に写る水色の川の写真を見て、こう言われた。


この写真は偽物です。川に色を塗っていますと。


そう答えた相手の川の色というのは、黒か灰色だとのことだった。

思い出すに、足かけ1年いたが青空を見た記憶がない。



動物園を除けば、市内で見た記憶に残る生き物はこんなものだ。


・1年を通して、犬1匹(チン)。ただし、煮立ったドラム缶に入れられるところ

・猫。記憶なし。たぶん0 匹。

・カラス数十羽。ただし郊外に近い場所。

・スズメ数十羽。これも郊外近く。

・生まれたばかりの赤ちゃんネズミのペット(尻尾をしばってある)1匹。

・鶯のような鳥。公園でおじいちゃんが籠に入れているのをかなり見た気がするが、別の記憶と混同しているかもしれない。



・その他の動物。人間以外は、記憶なし。




また、感動?したものに、こんなことがある。


・郊外の公園で、スカートをはいた女性(おそらく観光客)を見た。

・美味しいねと言った1品料理を、1か月くらい連続で出してくれた。

・封書は、係官がしっかり読んでいてくれていた。

・先輩が空輸してくれた薬は、私の健康を考えてくれたのだろう。

 3か月にわたってじっくり精査して渡してくれた。

・新端渓が数万円で買えた。

・半年待てと言われた贈答用テレビだったが、外国人専用のお金を出したら2、3時間後に届いた。

・ある方に頼まれて植木鉢の台を買ったが、彼らの年収以上だった。

・日本のインスタントラーメン1個分くらいのツバメの巣を、外国人専用店では現地人の年収くらいの値段で売っていた。

・上海人で上海ガニを食べられる人は、ほとんどいなかった。おそらく庶民は0%近い。

・外国人用最新アパートの月あたりの支払いは、現地人の10年分くらいの価格だった。

・ホテルにより、国籍によって値段があらかじめ違っていた。

・配給券がないと、現地人の店では食品やタバコが買えなかった。

・現地の店と最高級ホテルでは、100倍近い価格の差がある食材もあった。

・新鮮な果物はほとんどなかった。

・アイスクリームは、けして食べてはならないものらしかった。

・食品に虫が入っていたので文句を言ったら、それなら安全だ。ラッキーだねと店員に言われた。

・人民服を借り着てホテルに入ろうとしたら、入れなかった。

・風呂やトイレが自宅にある工員は、皆無だった。

・高級ホテルの高い部屋は、とんでもなく広かった。

 (林彪の別荘では、20畳くらいの部屋にトイレが1個だけ。毛沢東の上海滞在したホテルに泊まった上司は広すぎて嫌だと言っていた)

・交流にタバコは必須アイテムである。

・ヒマワリやカボチャの種をうまく割る技術は、私にはないと分かった。

・相手に道を譲るのは恥であるという感覚が強いと分かった。

・場合によっては、プラットホーム内に車を乗り入れることができる。

・信号がある場所では、守れれば守った方がよい場合もある。

・田舎では、現地人と話をしているとどこからともなく公安が現れる。

・郊外で写真を撮るのは、結構勇気が必要。

・アルコールが置いてある場所では、一切女性は働いてはいけなかった。

  だから、ビールもプロレスラーみたいお兄さんがドンと置いていった。

・大通りでの子供の排便は、できれば控える。

・朝は、ニーツァオとかニーハオとか言わないで昔の挨拶をすると叱られる。

  (昼飯おばちゃんが叱られている場面を見たことがある)

・青島ビールはうまかった。

・公司以外の車は、前日にホテルで予約しておかないと乗れなかった。

・部屋のダブルブッキング見たいことは、驚くに値しないことだった。





驚いたことは、まだまだ思い出せそうですが、とりあえずここまで。