これも、前に出た方とは違うが、やはりあるブロガーさんとの話だ。
この方は痛烈な安倍首相批判や自民党の横暴について記事にしていらっしゃるので、一部からは左翼だとのレッテルを貼られているらしい。
私には相当な右に見えることもあるが。
すごく日本を愛していることが分かるし、安倍首相や自民党に対する批判に関しても、非常に理解しやすく、一部ではネトウヨ安倍シンパとの噂のある私でさえ、感心して読み納得している。
ただし、私にはネトウヨとか安倍シンパの意識はない。
さて、そこで話題になったのが、レッテル貼りや差別意識などの違いだ。
レッテル貼りをしたい方の多くは、どうもそうしないと器に入りきらないのだろうという考えを聞いた。
なるほどなと思った。デジタル思考で分類しないと頭の整理がつかないのだろう。
これはうなった。
また、自分が気に入らない相手に対して馬鹿だキチガイだのはヘイトスピーチではないが、自分の周りでそう呼ばれることはとんでもないヘイトスピーチになるというアンバランス感覚も、器というものを考えれば腹が立たない。
まあ、そんなことだ。
歴史に学ぶシリーズだが、ある程度読解力があれば、私が中国や韓国同様に、米国や英国を皮肉っているのがお分かりだと思う。
しかしながら、読み方によっては中国と韓国ばかりいじめているネトウヨの代表となるのだろう。
このあたりも、器と考えればまったく腹が立たなくなってきた。
そのブロガーさんに感謝している。
いや、少し嘘をついた。、
まったく腹が立たないというのは嘘である。
これだけ証拠があるのに、的外れの感覚で記事を書いているのを見ると、正直腹が立つこともある。
もちろん、あきれてものが言えないことの方が圧倒的に多いが。
しかしなあ。
最低でも、1951年5月3日のマッカーサーの公聴会の内容くらいは、日本のマスコミもそろそろ報道してもいいのではないかなあ。
今のマスコミの勢力図からは、なかなか難しいことなのだろうが。