その5 表の主演女優
映画の場合もそうであるように、俳優はその役になりきらないと深い演技ができないだろう。どこかに不自然さが生まれてくるからだ。
ただし、俳優自身が役者であることを忘れ、あるいは知らぬ場合にはその限りではない。
この小説の表の主演女優もまた、そんな稀有な存在だった。
戦後日本の受験、特に大学入試は大きく変わった。
いや、むしろ一部大学では昔の形に戻ったといってもよい。
入学の可否は、経済学的なことがものをいう。
こうしたことは、かつての私立大学においてはなかば常識であり、角界に入ることになった某氏の卒論が「私は○×です」という内容だけだったという話が、まことしやかにささやかれたこともある。
緒方奈美は、一般入試では馬韓田大には入れない。
彼女は、彼女のときからはじまった面接のみでの入試(AHO入試)合格者第1号である。
親父は、子会社とはいえ世界屈指企業の役員。
母親は、時折マスコミにも登場する著名カウンセラー。
経済的には何ら問題がない。運営協力費も十分だしてくれそうだ。
面接前に、緒方の合格は内定していた。
彼女はこの事件の表の主役ではあるが、それは全く表面的なことだけであり、本来研究者ではない。
科学知識は、平均的な高校生レベルしかない。
ではなぜそのような人間がマスターからドクター、さらには和光生化研のユニットリーダーにまでなれたのだろうか。
その理由の一つは、大学の企業化ならびに期間限定成果主義の絶対化であろう。
非常勤講師ばかりか、教授、助教授、あるいは准教授さえも年間計画書・結果報告書提出が義務化され、成果が不十分な場合には翌年の契約さえ危ぶまれる。
そうした中で、安定的収入を得ることは自分の首をつなぐことにもなる。
学究の場が、経済の場へと変化していってしまったのだ。
本来学位論文に、コピペは問題外である。
ましてや電気泳動写真の切り貼りなどは、ほとんど犯罪だった。
が、一部の大学においては、こうした倫理観を育てないばかりか、見た目の重要性を説き内容にはほとんどタッチしないような大学の研究室さえ生まれてしまったのである。
そうした意味では、緒方もまた時代の犠牲者とも言える。
が、彼女には単に悲劇のヒロインになるだけではない、還暦過ぎさえ舌を巻くテクニシャン・海千山千、ヒンディーならばサギスでもあった。