【新ことわざ】鉄砲も数撃ちゃ自分にあたる | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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私は自分を公平な人間だとも、差別意識のない人間だとも思っていない。
だから、都議会の会長だかなんだかが『平場でなら』発言は非難できない。
確かに、立場上、またマスコミ相手ではまずかろう発言だとは思う。

が、私にしろ似たり寄ったりのところがあり、とても辞めろとかは言えない。

居直りと取られる方もかなりいるだろうが、私がちょくちょくお邪魔するブロガーさんへのコメント(R18指定コメントという逃げタイトルを付けたりしている)などは、見方によってはひどいセクハラジジイコメントになるし、プロゴルファーあと十歩のスタイルも表現も抜群ブロガーさんに対してのコメントも、やはり見方によったらひどいセクハラになるかもしれない。

自覚しているから許されるとは思っていないが、おそらく相手のブロガーさんはそんな危ないコメントを楽しんでくれていると思っている。
いや、自分勝手な勘違いかな?


また、こうした見方を拡大すれば、私が常々批判記事を書いているA新聞社やK氏に対しては、差別だという批判も成り立つだろう。


ただ不思議なのは、公平だの差別反対だのを訴える方々、つまり自分は差別はしないという方々のかなりに、安倍死ねだの、安倍さんの写真に×をつけたり、その人形をブルドーザで踏み潰す方々がいることだ。
あるいは、日本人じゃないとか、ひどいものは人間じゃないと言ったことを書いて、差別はいけないといけしゃあしゃあとしている方々がいる。


これは、私には理解できない。
安倍さんを批判するならば、私に時々間違い指摘コメントを下さる方のように、しっかりした理論やデータに基づいて批判すべきだ。

自分で差別を目一杯しておきながら、非人間表現や非日本人発言をするならば、その方には私よりひどい差別意識が奥底に潜んでいるに違いない。

なぜなら、安倍さんの批判に、わざわざ日本人じゃないとか、なんとか村出身だとかを言及することこそ、典型的な差別だからだ。

つまり、自分では目一杯差別しておきながら、それさえ気づかないか、気づかないふりをしている哀れな方々だと私には思えてくる。

人間誰でも大小を問わねば、差別意識みたいものはある。

それを少なくしていこうというのは分かる。

しかし、自分で目一杯差別していてそんな主張をしているのを見ると、ああこれは俺の知っている世界の人、常識とは違う次元の方々だ。


そう考えてしまう。