前から感じてはいたが、最近特に気になってきていることがある。
それは、思考の膠着(こうちゃく)というものだ。膠着などと書くと、なんか堅苦しいか。早い話が、決めつけパターンだ。
あの人は、猫が好きだ。だから、犬は嫌いだ。
そんな、パターンである。
世の中には、猫も犬も好きな人もいるだろうし、逆に両方嫌いな人もいるだろう。
しかし、こうした固定的な考えや見方が、ずいぶんと増えてきているように感じている。
もちろん、こうした考え・見方の人は昔からいた。が、その割合はかなり少なかった気がする。
この見方・考え方は単純で分かりやすいが、逆に危険でもある。
おそらくこれは、その人の経験、あるいはその人の性格、環境などに影響されているのだろう。が、私にとっては、ひどく想像力に欠けるとも感じてしまう。
まあ、こうした感じ方も人それぞれだから、私こそ膠着した考えとも言えるが。
でも、やっぱり私には、白か黒、AかBのどちらかといったデジタル思考は、柔軟性の無さや視野の狭さを感じてしまうのだ。
若い頃はいろんな状況に耐えられる訓練を受けてきたつもりだが、最近はすぐヘタレてしまい、考えたり行動したりが億劫になることが日常茶飯事になった。
私自身、ワンパターン思考に走りがち。
注意せねば、と自戒を込めて書いてみた。
私が尊敬しお邪魔する、しかし、私とは支持する政党などは正反対のブロガーさんがいらっしゃる。
この方が書かれていたが、ニューギニアにいた叔父さんは、戦争体験を話さなかったらしい。
それはなんとなく理解できる。私もクメール・ルージュから逃げてきた外国の方に何度かお会いしたことがあるが、やはり寡黙であった。
満州から生きて戻ってきた大叔母からは、あちらの話を聞いた記憶がない。
私は、本当に辛い経験とは、そんなものだろうなと考えている。
もちろんこれも、人によりけりだろう。
静かに話される方もいらっしゃる。
ここまでは、私にも理解ができる。
しかしながら、銅像を見るたびに、あるいは修学旅行の高校生を見るたびに、全身を使い大声で泣くことができる能力は、私の想像力を超えている。
話すたびにじんわり涙が浮き出てくるのは、十分に理解・納得はできるのだが。
像やら高校生を見るたびに、全身を震わせ大声で泣きわめくことができる能力のある方々。
逆算すると、幼稚園児や小学生時代から身体を駆使して男性に奉仕させられていたことになる方々。
証言内容が七転八転してしまう方々。
こうした方々に対して穿った見方をしてしまう私も、相当想像力が足りないのだろうな。
たぶん。