クーラーが適度にきいていて、心地がよい。
さて、終戦記念日だ。
私はこの日にはまだ生まれていなかったから、当然この日の記憶はない。
だから、具体的にこうだったと言えることはない。
まだ、相当揺られねばならない。
この時間を利用して、最近のマスコミなどの風潮に対して、非常に奇異に感じることを綴ってみよう。
戦争が好きな人など、ほとんどいまい。
マスコミでは好戦家とされてしまった東條英機など、天皇陛下に次いで戦争を回避したかったであろう人物だ。
彼は、世界の平和と各民族の平等を大変願っていた人物であったに違いない。
いろいろな人が評価しているように、彼は政治家になれるほどの二枚舌は持っていなかった。ある意味、一途な人だったと思われる。
最後まで戦争はしたくなかった。おそらくこれは、軍人ならみなそうではなかろうか。 戦争の悲惨さは、軍人が一番よく分かっているからだ。
ただ、いざ戦争と決まったなら、徹底して戦う。
おそらく軍人とはそういうものだろう。
東條英機の人間としての大きさは、いくつか残る遺言のわずか1通を読んだだけでも分かる。
戦争だ、戦争だと煽っていたマスコミなどとは、比較したくないほどの平和、平等を希求していたろう。
ある見方をするならば、マスコミが戦争の後押しをした。いや、圧力をかけて戦争に持っていったとさえ言える。
多分異論はあるだろうが、私はそう感じた。
この傾向は、今も健在だ。昨年の終戦記念日の記事を見れば明白だが、例えば韓国大統領が言ってもいない夢記事を書き、反韓感情を煽る。
まあ、よくやるよと思う。
ところで、この日前後に話題になるのが、靖国神社参拝をした政治家を犯罪者のように扱う一部マスコミだ。
靖国神社に祀られている人たちに関しては、いろいろな見方ができよう。
しかし、戦没者である。
少なくとも、私たちを守るためにいた方々である。
いや、敵にしろすでに生を終えた方々である。
こうした方々を参拝して、何がいけないのか。
敵は子孫まで抹殺し、敵将の墓を暴くというのは、大陸ではよくあったが、日本には馴染まない。
日露戦争では、日本海に散ったロシア人を弔った。今なお四国には、その風習が残っているではないか。 トルコ人は100年以上昔の恩に報わんと、日本政府が出せなかった飛行機を出して、戦下にある日本人を救ってくれたのは、比較的最近のことではないか。
インドでは、今なお日本人の戦没者に祈りを捧げてくれているではないか。
インドネシアでは、英雄として何人もの像を建てて祀ってくれているではないか。
ミャンマーでは、日本兵士たちへの祈りを今なおしてくれているではないか。
中華民国では、教科書にまで載せて称えてくれているではないか。
ひどく非難しているのは、我が国と戦争をしたことのない、大韓民国と中華人民共和国ぐらいではないだろうか。
戦争をしたことがない国が、なぜ我が国のことを非難するのだ?
さらに、極めて奇妙な話だが、まるで日本と韓国や中華人民共和国が戦った過去があるようなマスコミ報道。
話にならない。
我が国が戦ったのは、中華民国だ。
その敵だった中華民国、現在の台湾とは、全体として極めて友好な関係にある。
日本と戦争をしたことがない、韓国と中華人民共和国だけが文句を言っている。
不思議である。
また、その不思議をマスコミは伝えない。
私は、戦争を賛美するものではない。
しかし、戦没者に対する侮辱と、靖国神社への参拝者告げ口マスコミには腹が立つ。かつ、犯罪者のような扱いには、本当に日本人かとさえ感じる場合もある。
マスコミが靖国神社の参拝を問題化した。
もともと、靖国神社参拝に反対する声など海外にはなかった。
A級戦犯合祀云々は、とってつけた話である。
だいたい、そんなことを言っているマスコミトップがA級戦犯容疑で捕まり、何らかの事由で釈放されているではないか。
靖国神社には、世界数十ヶ国の国王や大統領、首相、将軍、兵士などが参拝している。
その中には、クワイ川で日本軍の捕虜になっていたイギリス人も含まれている。また、ミッドウェイで国の生死をかけたアメリカ海軍の艦長もいる。
これが、戦没者に対しての当たり前の態度であると、私は感じている。
亡くなられた方に、敵も味方もないのだ。
この感覚は、三國志に記述されている倭の風習をみても分かるように、昔から日本人に培われていたものだ。
こうした感覚に乏しい一部マスコミと、一部の日本人または、日本人風の方々の戦没者を貶める精神構造に、私は疑問を投げかけざるを得ない。
先の戦争を賛美するものではない。
それと靖国神社参拝を結びつけてしまう感覚は、日本人的発想ではないと感じている。

