さて、これから数回は、三國志・魏志にある倭人の記述から少し離れて、これに出てくる邪馬台国や卑弥呼に関する説や持論を述べていきたい。
その1回目は、邪馬台国=九州説である。
いわゆる『魏志倭人伝』と略称される書物では、不弥国あたりまでは距離や方角が詳しく記されているから、現在の地理的位置はだいたい分かっている。
が、肝心の邪馬台国がさっぱり分からない。
で、不弥国より南であることや、邪馬台国の南には敵国があることから、北九州だろうというのが、この説のポイントだ。
その候補地は多々あるが、第一に挙げられるのは吉野ヶ里遺跡のあるあたりだろうか。現在の佐賀県東部、筑紫平野の北の方に位置する。鳥栖とも近い。
邪馬台国は、当時の人口七万余。おそらく世界有数の大都市であったろう。
筑紫平野ならば、なんとかこの人口を養っていけたに違いない。確かに、ここなら可能性はある。
また一説では、佐賀県八女あたりだろうという。ここも吉野ヶ里同様筑紫平野南端にあり、食の確保は大丈夫そうだ。
さらに南下した、熊本県菊池付近説もある。この付近の地名は興味深い名前が多く、これも外せない。
一方、かなり東、大分県の宇佐とする説も強い。確かに、古代最高神は宇佐の八幡神である。その巫女的性格を考えると、宇佐説も魅力がある。
その他おもな九州説は、ほとんどが北九州に偏っている。
現博多説や大宰府説、別府説などだ。
熊本県中部以南は、敵勢力と考えられるから、南九州はあまりない。
また、阿蘇付近説は、魏志に阿蘇山の記述がなく、可能性は低い。
鹿児島説も同様だ。
高千穂説は、7万の人口を支える食糧に不安があるから、可能性は低い。
宮崎説は、近隣に国が少なく敵地と接しすぎのようで、可能性は低い。
ということで、私も北九州筑紫平野か、菊池平野あたりを候補地と考えている。
ただし、この邪馬台国=北九州説には、一見致命的な欠陥がある。
それは、邪馬台国の位置が、奴国付近から南へ船で20日行った所から、さらに10日船に乗り1ヶ月歩いた所と魏志には書かれているように読めるからだ。
つまり、邪馬台国は北九州から船で1ヶ月、さらに徒歩1ヶ月という場所にあることになる。
この読み方をしてしまうと、邪馬台国は沖縄か台湾あたりになってしまう。
が、この読み方はいささかおかしいと気づく。
が、これは説明にいささか時間がかかる。
今日は、これまで。