最近、何人かのブロガーさんの記事やコメントなどでこの言葉を聞く。
考えてみるに、私は儒教に関して孔子が始めた学問であり、秦時代には迫害を受け、現在では変質したそれが韓国などに残っているだろうくらいしか知らない。
そこで、昼寝をして長い夜になりそうだから、この儒教とかいうものについて考えることにした。
儒教というのは、名前からして自分から名乗っていた学問ではないだろう。
日本人を東夷倭人とか、モロッコあたりの民族をベルベル人などと呼んだような、かなり馬鹿にした名前だからだ。
ただし、今はその呼び方しか思いつかないから、失礼と分かりつつ儒教と呼ばせてもらおう。
孔子とは、紫式部とか清少納言同様本名ではないが、やはり面倒なので、こう呼ばせてもらう。
前置きが長くなった。本論に入ろう。
孔子の理想とする国とは、権力による支配ではなく、徳による教化によるもの、つまり支配者たる王のみならず、国の民すべてが仁あるものとなることを理想としたのだろう。
仁とは最高の徳であり、これを得る手段として礼を重んじた。
その第一は、孝悌だ。
つまり、親子や兄弟に対する敬いの気持ちと上下関係ということになるだろう。
おそらくは、この思想が根本にあると、その他のことは二の次となる。
上が白いものを黒と言えば、それを信じることが孝である。
つまり、事実うんぬんが重要なのではなく、王や先祖を敬う行為こそが誉められるべきこととなる。
換言すれば、仮に事実であろうとも、それが王や先祖にとって不名誉なことならば、それは間違いなのだ。
つまり、否定すべきことであり、事実を露にする輩は悪魔の類いなのである。
これを守れない者は、王たる徳のない人物となる。
そんな風に考えると、なんとなくお隣さんの見え見えの嘘八百の突っ張りが理解できてくる。
もちろん、納得などはできないが。