その昔、WCと言ったら我が家では東京に行くことであった。
東京というのは都の名前ではなく雪見に似たもの、川の流れ近くにある館を訪れることである。
あるいは、手の穢れを落とす場所でもあり、身より出でしものを落とす場所でもあり、便利を諮る場所でもあった。
そんな東京を訪れながら考えた。
地名の東京とは正反対の大毬の裏で、逆さまに立っている人たちの小鞠に興じているあたりのことだ。
隣村の火事など見えず、こちらばかり観ているにやあらむ。
かくいう私もまた、つとめはないが、つとめてよりつとめてそれを観ている。
今日は秋津瑞穂に合わせてか、つとめてではなく陽の昇りてよりのつとめらしく、こちら側には喜ばしいことだが、逆さまに立ちたる蹴鞠人たちにとりては、つとめが終わり飯など口に入るのはつとめてにやならむなどと考えると、醒め醒めや覚め覚め鮫鮫ではなく、さめざめとした気分になってしまう。
ましてや、やんごとなき河原にあらぬかわらばんなどの、長々と口上するが恒常たるは厚情やも知れぬが、いささか強情にも映りたるゆえ、少なからずかこちたる気分になってしまったのであった。
おっと、なんか文章が変だ。
あるブログ記事にプロの光を聞いてしまった故、自分の器のつつろなるを改めて知り、着も歯もすずろなれば、気も覇もそぞろなのである。
おそまつ