【真面目記事2】わたしが『日本書紀』を素直に読めない理由 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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先に『古事記』が好きな理由となる部分を挙げた。
あの部分には、作者の真意と後世の私たちへの重大なメッセージが隠されている。
その呻きさえ聞こえてくる。だから、好きなのだ。

さて、今回は、『日本書紀』が好きになれない理由を挙げよう。
最初から毛嫌いしていた訳ではない。


それは、『古事記』と『日本書紀』の、以下の記述を比較して以降だ。
(現代口語訳)







『古事記』中つ巻
≪倭建に東征の命があった部分≫

ここに天皇、また頻きて倭建の命に「東の方十二道の荒ぶる神、または伏はぬ人どもを、言向け和平せ」と詔りたまひて、吉備の臣等が祖、名は御鋤友耳建日子を副へて遣す時に、比々羅木の八尋矛を給ひき。かれの命を受けたまはりて、罷り行でます時に、伊勢の大御神の宮に参りて、神の朝廷を拝みたまひき。すなはちその姥倭比売の命に白したまひしくは、 「天皇既に吾を死ねと思ほせか、何ぞ、西の方の悪ぶる人どもを撃りに遣して、返りまゐ上り来し間、幾時もあらねば、軍衆をも賜はずして、今更に東の方十二道の悪ぶる人どもを平けに遣す。これに因りて思惟へばなほ吾を既に死ねと思ほしめすなり」とまをして、患へ泣きて罷りたまふ時に、倭比売の命、草薙の剣を賜ひ、また御嚢を賜ひて、「もし急の事あらば、この嚢の口を解きたまへ」と詔りたまひき。




一方、これに対応する部分の『日本書紀』には、およそこんな記述がある。
少し長いので、簡単にまとめてみる。

≪景行天皇≫日本武尊敬の東征(簡略訳)


天皇がまだ東には暴れ神がいるので、西征から戻った日本武尊(→古事記の倭建のこと)は、兄の大碓を推した。しかし、大碓は逃げ隠れてしまう。
そこで日本武尊は自らこう申し出る。
「熊襲が平らげて間がたたないうちに東国の夷が叛いた。私にとっては大変ですが、急いで乱を平らげましょう」と雄々しく言った。
(中略)

日本武尊は将軍の位を賜り、再度拝謁してこう言う。
「かつて西征の時は皇威を頼り、三尺の短い剣をもって、熊襲の国を打ち負かしました。今また神祇の霊に頼り、皇威をお借りして出かけて行き、徳教を示しても従わないならば、討伐しましょう」

(中略)
途中で伊勢神宮を拝まれた。
倭媛命にお別れのことばをこう述べられた。
「いま天皇の命を承わり東国に行き、反逆者たちを討つことになり、ご挨拶に参りました」
と、倭媛命は草薙の剣をとり日本武尊に授けてこう言った。
「気をつけて。油断はしないように」

……以下、東征へ……






はぁーあ、である。

この部分を比べただけだが、このように色付き見え見えの『日本書紀』は、どうも好きになれないのだ。





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