
この出題者は何を考えているのだろう。
いや、実は言いたいことは分かっているつもりだが、敢えて嫌み記事を書くぞ。
マラソンとはね、42.195kmを走ること。
それ以上も、それ以下もありません。
だから、この質問は質問になっていません。
さて、嫌みついでに、もひとつ書いてしまおう。
それは、このブログを始めた時から気になっていたことだ。最近は多少慣れてきたが、いまだにすんなりとは喉を通らない言葉がある。
それは「おる」という言葉の使い方だ。
~が言っておるように
のように使われている。
広辞苑を引けば分かるように、「おる」とは本来
①自分の行為を卑下する場合
②相手の行為を蔑視する場合
などに使われ、現代においては古風な、あるいは尊大な印象を与える言葉だ。
が、最近の一部インターネット辞書などを見ると、
~ておられる
と助動詞を付加することにより、尊敬を表すことになるらしい。
例えば、
●●先生が言っておられるように
のような表現である。
理論的には、
卑下・蔑視+尊敬=尊敬
となるらしい。
こうした表現がいつ頃から出てきたのか知らないが、飲食店などで使われる過去形表現を尊敬表現と勘違いして使っている例に似たものを感じ、今一つすんなり喉を通らないのだ。
ついでに言えば、一部の金融機関などで行われている、お腹に手を当ててお辞儀をする動作。
あれはいただけない。
あれは、チマ・チョゴリを着た時のお辞儀の仕方であり、和風ではない。
聞いた話では、あのお辞儀をマナー教室で教える所さえあるという。
なぜ、お腹に手を当て肩肘はるお辞儀をしなければならないのか。
それは、チマ・チョゴリの構造にあるのだが、それを無視して、まるで日本におけるお辞儀マナーのような教育をしているらしい。
和において、肩肘を張る挨拶が伝統的なわけがないではないか。
テレビコマーシャルやマナー教育が、メチャクチャ文化を新設している。
もっとも、私が子どもの頃は、洋食マナーとしてフォークの背中にご飯を載せ食べるのが正しいマナーなどという、まさに噴飯もののマナー本もあったし、多くの田舎人はそれを信じてしまっていたが。
過去の異常には気付いても、現在進行形の奇妙さには気付かない場合が多い気がする。
ナツツバキ
シャラノキと呼ばれることがあるが、仏教で出てくるシャラノキとは別物。しかし、日本ではこの誤りが正しいことになってしまった。
南京大虐殺小説や従軍慰安婦ストーリーが、そうならないことを願いたい。

