再掲追記【南京事件?】検証 8 兵士らの日記類 ★最終回 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

しま爺の平成夜話+野草生活日記

世間を少しばかり斜めから見てしまうしま爺さんの短編小説や随筆集などなど
★写真をクリックすると、解像度アップした画像になります。

この記事は、南京大虐殺(1937年12月中旬~1938年初)があった証拠とされている資料の中で、「これが大虐殺の証拠?」、と私が疑問に思った部分を抜粋し口語訳したものです。


★大内利己

1937年12月23日
土民は畑の中で牛と働きながら、我らを見て歓迎してくれている。
門には、日章旗がヒラヒラと翻っている。


1938年1月5日

もう午後2時半、腹もペコペコだ。
支那人も大変だなあ。
昼食をご馳走になったので、支那人に米を与えたら大喜びしていた。



★高橋光夫

1937年12月22日
(南京に近い村)
支那軍が略奪をした後に我々が入る。
この部落では、日本軍を見て乾杯をして喜んでいる。


12月29日
現在いる支那人はなついている。
向かい側にいる少女が可愛い。
兵隊と一緒に、一里近い遠くまで徴発についてくる。



★黒須忠信

1937年12月10日
支那人家では、我が帝国国旗を掲げて『歓迎大日本』などの文字を入れている。
鎮江からは、相当避難民が帰ってきた。


12月11日

日本に長くいた支那人がいて、日本語も分かる。
湯茶を沸かしてくれ、日本軍を歓迎してくれた。




★目黒福治

1937年12月11日
5日前まで支那兵がいて、食糧を略奪していったらしい。
日本軍が来て安心している。





★非常に好意的解釈をすれば、『南京大虐殺』を主張し、こうした証拠資料を掲載などしている人たちは、読者に対して「俺に騙されるな!よく読め」と言っているのだろう。


なお、あちら発行の新聞では、日本軍が南京入りしたのちの報道人口が
0(全員虐殺)→10万→25万とだんだん増えている。
また、とんでもない内容に溢れ、そこでは日本軍に一般市民が虐殺されている。
が、これは掲載する価値なし(南京にいないのに記事を書いている)なので、ここでは取り上げていない。



このシリーズ

おわり



DCIM0001.jpg





★追記

これは、南京大虐殺キャンペーンの代表である、朝日新聞編集長本多勝一氏らが編纂した資料です。

これらを嘘だとするなら、斉藤2等兵の記述も怪しむべきです。

いや、斉藤2等兵の記事は、全く別の視点から、かなり捏造の可能性が高いと思っていますが。


また、この手記などが事実なら、民間人大虐殺を信じる方々の国語力不足か、脳や精神の異常を疑います。




天津で生まれ育ったフリーアナウンサーの鈴木史朗さんが、南京大虐殺など聞いたことがないと言っているのは有名です。

また、私自身、南京ではありませんが南部にいた支那漢人が、日本兵はかわゆかったという言葉を自分の耳で聞いています。
image0013.jpg