この記事は、南京大虐殺(1937年12月中旬~1938年初)があった証拠として挙げられているものに関して、私が疑問に思った部分を抜粋し口語訳したものです。
★新妻富雄 日記
1937年12月22日
午後3時入城
地方人の歓迎を受け城内に入る。
敵なし。
★大寺隆 日記
1937年12月22日
途中通った部落では、花火を上げたり、天ぷらその他の菓子を作って歓迎してくれた。
(中略)
土民は旗を作り、爆竹で大歓迎してくれる。
湯を持ってきてくれる者もある。
12月24日
午前7時に起床ラッパが鳴る。
皆が笑う。
ラッパが鳴るようなら異状ないなと。
ずいぶん平穏になってきた。
12月28日
雪が降ってきたので、野原に逃げていた支那人も随時帰ってくる。
この家も帰ってきたので、我々の部屋もあけてやらねばならなくなった。
★遠藤高明 日記
1938年1月10日
使用人である支那人・張に、10元を与えた。
★本間正勝 日記
1938年1月11日
はじめて支那床屋(理髪店)にかかる。
★天野三郎 手紙
1937年12月23日
住民のすべてが蒋介石を憎んでいる。
これは、まんざら日本軍へのお世辞でもないようです。
早く日本が治めるようになればいい、などと言う支那人もいます。
★繰り返しますが、これらは南京大虐殺肯定派の親分ともいえる、朝日新聞編集長本多勝一氏らが編纂した資料に載っているものです。
民間人全員大虐殺のあった場所にしては、変だ?と思いませんか?
思わなかったら、あなたの国語力は小学5年生以下でしょう。