燕からきた漢人の作った衛氏朝鮮が滅びると、朝鮮半島は漢の直轄地となり、いくつかの郡に分割されていきます。
ピョンヤンを中心とした楽浪郡。
全羅道方面の真番郡。
江原道方面の臨屯郡。
さらに、咸鏡南道方面の玄菟郡を設置し、これら郡の下に幾多の県を置き、イエ族、つまり朝鮮人を直接支配する体制が、4世紀初めまで続くことになります。
ただし、ここで珍しいことに、朝鮮が大国に抵抗した記録があります。
それは王調が楽浪郡太守を殺して、反乱を起こしたというものです。
西暦25年頃のことのようですが、漢と5年も戦ったようです。
これは長い朝鮮の歴史の中で、結果的に大陸管理下に戻ったとはいえ、非常に際立った出来事といえるでしょう。
結局、楽浪郡は漢の直轄地に戻り、高句麗に滅ぼされる313年まで続きます。
この後、しばらく続く朝鮮半島の三国時代へと入っていきます。
なお、漢の支配が十分に及ばない半島南部は、韓族の数十ある小国家分立状態で、いわゆる国とはいえない状態であったようです。
馬韓、辰韓、弁韓などがよく知られるところですが、これは多くの小国家の連合組織のようなもの。
せいぜい数千戸、少ない国は千戸未満の村の集合体のようなものであり、それらすべての小国家を合わせても、数万戸程度だったようです。
このあたりは、大陸の使者が安全に往来できる程度の管理下ではあったようです。
つづく