1958年から1960年の大躍進政策失敗の責任をとり、毛沢東が国家主席の座を降りた。
が、これはあくまでも対外的なもので、実権は相変わらず毛が握っていた。
再度表舞台への復活を狙い、近しい仲間を使って文化大革命を敢行させる。
1966年に始まった文化大革命とは、結局反毛沢東派の一掃にあり、毛親衛隊の紅衞兵により国民は恐怖のどん底に落とされる。
強奪、自殺強要、生きたままの穴埋め、文化財破壊……。
そのあまりの傍若無人さに、紅衞兵の動きは軍を利用して抑えられていく一方で、四人組の残虐行為が増えてくる。
なお、毛をバックにした四人組による粛清は留まることを知らず、党トップさえ明日の命が保証されない日々が続く。
そんな中、1971年9月13日、No.2の林彪らがクーデターを企てた。
が、すぐに露見し、林彪はロシアに亡命を図る。
が、林彪の乗った飛行機はモンゴル領内で墜落し、林彪は死亡(面倒に巻き込まれるのを嫌った、ロシアによる爆撃説あり)。
ここで興味深いことがある。
林彪が墜落死したことは、1年近く伏せられていたことだ。
なんと、党が林彪死亡を発表したのは翌年7月下旬である。
それまでは重病説、粛清説などが飛びかっていた。

林彪死亡を伝える朝日新聞
1972 07 28
この頭のつっかえがなくなったあたりから、悪名高い四人組が一層力を増す。
四人組とは「批林批孔」という、林彪のブルジョア志向、孔子の封建的儒学を排斥しようというポリシーのもとに行動する者たちだ。
江青、王洪文、張春橋、オウ文元を指す。
彼らは、1976年10月6日逮捕され、やがて裁判にかけられ失脚するが、それまでは林彪ばかりか、周恩来やトウ小平にさえ追い落としを何度もかけて、トウ小平などは、一時自殺未遂説さえ流れた。

歴史では、四人組の失脚は、周恩来の葬儀を妨害した四人組に反発する動きが契機になったとある。
多くの民衆に尊敬されていた周への弔いを天安門でしており、これを四人組が妨害したからだとなっている。
さらに、江青が毛の近親者を使って軍を動かし、クーデターを企んだとある。
が、一部の歴史解説には、四人組逮捕は事前から準備されていたとも言われている。
真相は分からない。
とにかく、四人組の逮捕で恐怖政治が終わり、下野させられていたトウ小平が、党のトップ層にカムバックし、やがて長らく続くトウ帝国が幕開く。
トウは日本の新幹線に乗って、あまりのスピードに驚き、自国を大きく変える必要があると感じたと言われている。
また、天皇陛下からの意外なお言葉に、卒倒しそうになったという逸話もある。
が、このあたりの真偽は分からない。
同様に、この文革でいったい何百万、何千万、あるいは億の粛清と犠牲者があったかどうかも、永遠の闇である。
ただ、大躍進運動と文革を合わせると、おそらく億という単位になるだろう。
こんな言葉が伝わっている。
4億、5億の民がいる。
1億や2億消えても問題ない。
本当に発した言葉かどうかはわからないが。
文革シリーズ
おわり
真面目に調べたので、少々疲れた。